2012年1月12日木曜日

西美濃三十三霊場第16番札所


西美濃三十三霊場第十六番札所
普賢山禅幢寺(ぜんどうじ)
所 在 岐阜県不破郡垂井町岩手 1038 
宗 派 曹洞宗
本 尊 釋迦如来 聖観世音菩薩
創 建 明応三(1494)年
開 基 薩州金幢寺の僧正碩和尚は開創


普賢山禅幢寺は、西美濃三十三霊場として、唯一不破郡垂井町(ふわぐんたるいちょう)にある札所です。大垣駅からは約13㎞、車なら20分くらいで着きます。大垣から電車でなら、東海道線の垂井駅で降りて約4.5㎞なので、1時間くらいで歩ける距離です。
第16番霊場の碑

禅幢寺の後ろは山ですから、ひっそりと静かで、しばし俗世界と切り離された感覚を味わうことができます。関ケ原が近く、最近は戦国時代などの歴史が静かなブームなっているせいか、「歴女」と呼ばれる若い女性のグループや中高年の小グループなどが史跡巡りを兼ねたウォーキングに来ている姿をよく見かけます。

垂井町や関ヶ原町は中山道の宿場でもあり、歴史の宝庫。18番・妙応寺や周辺の史跡と合わせてぜひ繰り返し訪ねていただきたいです。

禅幢寺は、戦国時代に蜂須賀小六正勝とともに、木下藤吉郎の軍師として天下とりの一翼を担った天才的な戦略家として有名な竹中半兵衛重治とその一族や家臣の菩提寺となっています。
16歳で家督を継いで菩提山城主となった半兵衛は、永禄7年(1564年)、若干20歳のとき、斉藤龍興の居城・稲葉山城(現在の岐阜城)をわずか17名の手勢をもって、たった1日で攻略したことで、一躍「今公明」と賞される存在になりました。
現在の岐阜城

この話には続きがあります。稲葉山城攻略の報を聴いた織田信長は、自分に譲るよう半兵衛と交渉しました。これに対し半兵衛は「主君龍興を諌めるための行動なので、何れ城は龍興に返すつもりだ」と断ったのですが、信長は、この若者の欲のない真っ直ぐな人柄に感心して、後に家臣団に加えたと伝えられています。
これまでは、信長には直接仕えず、藤吉郎配下になったというのが通説になっていましたが、最近では信長の直参だったという見方が有力です。

半兵衛は様々な逸話を残しましたが、天正7年(1579年)、播磨三木城攻略中の陣中において、まだ36歳という若さで病没します。その人物を惜しんだ羽柴秀吉は、半兵衛の故郷である垂井町菩提山に近い禅幢寺に墓を建てて弔いました。
半兵衛の墓(向かって左)

また、禅幢寺には関ヶ原合戦で敗れ、半兵衛の子・竹中重門によって捕らえられ処刑された小西行長の墓もあります。その位牌は西美濃三十三霊場の第十二番札所である観音寺(揖斐川町春日)に安置されていますので、十二番札所のブログも参照してみてください。

質素で落ち着きのある本堂
現在の本堂は、半兵衛の孫にあたる竹中重常が寛文三年(1663)三月に建立したもので、修理をされながら今日にその姿を伝えています。寄棟の屋根は思いのほか質素で、天才であっても控えめだった竹中半兵衛の人柄を思わせるような佇まいです。ただし、櫓のような造りの鐘楼は力強さを感じさせます。
 
力強く、かつ優美な鐘楼
近くには半兵衛の居城のあった菩提山(標高401m)があり、ハイキングコースが整備されています。

関ヶ原合戦で東軍に参加して戦功のあった重門は、戦後、旗本にとりたてられ、廃城とされた菩提山城の代わりに館を建てました。それが現在の岩手小学校あたりに残る「竹中陣屋跡」です。

この門の前に半兵衛の銅像があります。戦場における軍議の席の姿でしょうか?
「その姿、婦人の如し」と言われた半兵衛にしては堂々とした体格の像ですね。

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