2012年7月6日金曜日

西美濃三十三霊場第27番札所


西美濃三十三霊場第二十七番札所

臥龍山行基寺(ぎょうきじ)

所 在 岐阜県海津市南濃町上野河戸10241

宗 派 浄土宗

本 尊 阿弥陀如来(十一面観音)

創 建 伝天平時代

開 基 行基菩薩


臥龍山行基寺は岐阜県の西美濃地方、海津市南濃町の養老山脈の中腹に有ります。西美濃三十三霊場のうち最も南に位置しています。その歴史は天平時代にさかのぼる由緒ある名刹です。歩いて登るのがきついという人は、上に駐車場がありますからお車で登れます。
第27番霊場の碑

天平時代、美濃・尾張・伊勢の三国にしばしば大洪水がおこりました。 濃尾平野は大海原と化して人命や家財に莫大な犠牲を出したといわれています。 当時、大仏建立の勧進のために諸国を行脚されていた行基菩薩はこの悲惨な惨状から諸人を救済するため、 奈良の東大寺(大仏)建立と同じ時期に臥龍山行基寺を開山・建立されました。天平宝字元年2月2日、行基菩薩(82歳)は奈良の大仏の姿を目にすることなく臥龍山行基寺の地に入定されたと伝えられています。



 最初は臥龍山菩提寺と称していましたが、延元元(1336)年、南北朝の戦乱に巻き込まれ全て焼失してしまいました。

元禄13年尾張藩2代藩主徳川光友の次男松平摂津守義行が高須(現海津市内)に封ぜられたとき、高須円心寺住職性誉がこの地の旧蹟再興を進言したので、義行は、松平家の菩提寺として伽藍を再建し、宝永2年7月に完成しました。



旧寺の山号をとって臥龍山行基寺と名づけ、構えは山腹を利用した城郭造りで、石塁は慶長18年名古屋城築城の際、この地方から多量に搬出された河戸石を用いています。

安定感のある本堂

三門、本堂、大書院、小書院、庫裡、松平家廟等は当時の大名の偉容を示しています。文政3(1820)年に三門が建てられ、門上に三尊仏釈迦・千手・弥勒が名古屋の伊藤治郎左衛門より寄進され安置されました。現在の本堂は、天保3(1833)年に再建されたものです。

堂々とした三門
行基寺からは濃尾平野が一望でき、遠く名古屋市や伊勢湾まで見渡すことができます。景色を楽しむという点では、三十三霊場の中でも屈指と言えるでしょう。寺の周囲は緑のほか何もなく、実に静かで爽やかな環境なのも時を忘れさせてくれます。



遠くに名古屋駅のツインタワーが見えます!

もちろん夜景も抜群で、別名「月見の寺」とも呼ばれています。お寺にある「月見の間」からの眺望は素晴らしく、秋の夜に訪ねたいお寺ですね。

2012年6月24日日曜日

西美濃三十三霊場第26番札所


西美濃三十三霊場第二十六番札所

志津山善教寺(ぜんきょうじ)

所 在 岐阜県海津市南濃町志津1729 

宗 派 浄土宗

本 尊  阿弥陀如来十一面観世音菩薩

創 建 元禄十三年

開 基 聴誉和尚


 善教寺は海津市南濃町の養老山ろく、山と緑にひっそりと包まれた質素な寺です。周りには民家など一切なく、南濃みかんの畑が点在しています。

二十六番霊場の碑

 木々に囲まれた参道は深山の雰囲気さえ感じ、俗世から仏の世界へのトンネルであるかのようです。結界を通り過ぎるというイメージぴったり。



 善教寺は大垣藩主戸田氏西(うじあき)の遺言で、元禄13(1700)年大垣円通寺聴誉和尚が建立しました。志津山東向院善教寺と称し、氏西公の木造を祀っています。
 うっそうとした木々の下に苔むして山門が建っています。 



 静かな境内には、水音聞こえる岩肌の下に池を配した庭が造られていて、綺麗に手入れされています。

本堂です

 


 本堂横には十二支の守護佛を納めた御堂が建ち大きな佛が並んでいます。ほかにも格式を感じる鐘楼が在るんですが平成24年現在は修理中です。




 志津三郎兼氏は、正宗の弟子といわれる日本刀の名匠です。南濃町志津の鍛冶ヶ谷に住居し、鍛刀に精進しましたが、康永2年(134367歳で没しています。住居跡は山崩れで形を変えてしまいましたが、有志によって昭和30年(1955)善教寺境内に顕彰碑が建立されました。


2012年6月17日日曜日

西美濃三十三霊場第25番札所


西美濃三十三霊場第二十五番札所

滝寿山養老寺(ようろうじ)

所 在 岐阜県養老郡養老町養老公園1276-1

宗 派 浄土真宗大谷派

本 尊 阿弥陀如来,十一面千手観世音菩薩

創 建 奈良時代

開 基 伝・源丞内


養老寺は養老の滝への登り口にあり、自然に散策コースに取り込まれています。第24番の大菩提寺からは15分くらいで歩いてくることができます。
第25番霊場の碑
養老寺の由緒をたどると、養老の滝の孝子伝説に行きつきます。そのくだりを少し記述しますと・・・

孝子伝説

昔、この美濃国(岐阜県)多渡山に貧しい樵(きこり)がいました。いつも山へ入って薪を採り、売ったお金で父親の好きな酒を買って飲ませていました。ある日薪を採りに山へ入ると、苔むした岩間から水が流れ、酒の香りが漂い、なめてみると酒の味がするではありませんか。喜んだ樵はひょうたんにつめて持ち帰り、父に飲ませますとたいへんうまいお酒とたいそう喜びました。

このことがやがて奈良の都にまで聞こえていきました。時の帝の元正天皇は、霊亀三年(717)、多度山に行幸になった折に、この美泉に浴され、痛むところをお洗いになると速やかにご回復されました。そして「老いを養う水と」おほめになって、年号を養老元年と改められ、天下の老人八十以上に位一階を授けられるなどの恩賜があり、孝子の節婦などを表彰されたということです。

ここからが養老寺の由緒になりますが、養老二年には,七堂伽藍をご創建になり、寺号を賜って滝寿山元正院養老寺と称し、滝守護不動明王(県重文)を勅納され、寺家三十坊、寺領三百国を賜り、源丞内を開基とし、法相宗を旨とし、同帝の天牌を奉安し、宝祚萬壽天下泰平を祈る勅願所となりました。

痛みが激しい本堂 早急な修理が必要と思えます
  鎌倉時代の初期、天台宗に転派して、十一面千手観音(国重文)を本尊として、当寺を護持してきましたが、永禄五年(1561)、織田信長の兵火により、七坊堂悉く焼失し、寺領も剥奪されました。しかし、このとき滝守護不動明王、十一面千手観音などの寺の重要宝物は滝谷に避難させており無事残りました。

その後、大垣城主伊藤長門守が帰依され、天正十八年(1590)二月、仮堂が再建され寺領も寄付されました。その後、高須城主徳永石見守が再建の志を立てて、慶長元年(1596)着手、同十二年緒堂坊舎悉く完成されました。

関ヶ原合戦のとき、徳川家康が養老寺に戦勝を祈願し、合戦後その成就を喜び、新藤五国光の太刀(国重文)を寄付しました。この頃真宗大谷派初代教如上人の揖斐郡春日谷での教化中、当寺の住職が帰依し、同派に転派して、阿弥陀如来を本尊として今日に至ります。

徳川初期霊元天皇ご病気のとき、元正帝の古事から,享保十一年(1726)、菊水の霊水を取り寄せられて薬湯として用いられました。病気ご回復を喜ばれた天皇は、父君後水尾天皇のご宸翰懐紙(町重文)をご下賜になりました。

                                    
パンフレット「養老志」より


養老の滝へつづく坂道にはお土産店がたくさん並んでいます。夏でも木陰で程良い涼しさ。蝉の声を聞きながら15分位で滝まで歩けます。
   養老のお土産は、何といっても孝子伝説にちなんだ「ふくべ」。すなわち瓢箪です。地元では瓢箪の栽培が盛んで、立派な瓢箪がずらりと店先に並んでいます。7つの瓢箪で「無病」(むびょう)という縁起物がありますが、よく売れるお土産です。

1メートルクラスの巨大瓢箪もありますよ
   西美濃には養老の滝と、垂井町にある不破の滝が有名なんですが、養老の滝はそのしなやかな姿から「女滝」、不破の滝は荒々しい豪快さから「男滝」と呼ばれています。

紅葉シーズンには、とても素晴らしい姿を見せます。この季節には観光に訪れ人もたくさんいてとてもにぎわいます。

イノシシ、サル、シカ等、野生動物もしばしば出現します。たくさん生息しているようです。お土産物店の店先にはイノシシの皮が! 頭蓋骨はイノシシとシカですかね? ちょっと不気味ですね。野性味あふれるシシ鍋料理(ボタン鍋)をいただける旅館もありますから、ぜひ一度はご賞味くださいませ。

2012年5月18日金曜日

西美濃三十三霊場第24番札所


西美濃三十三霊場第二十四番札所

養老山大菩提寺(だいぼだいじ)

所 在 岐阜県養老郡養老町養老1193

宗 派 臨済宗妙心寺派

本 尊 如意輪観音

創 建 不詳

開 基 不詳

養老山大菩提寺(臨済宗,如意輪観世音菩薩)は別名大悲閣ともいいます。大垣駅を起点にすると約13㎞ですが、最寄りの養老鉄道養老駅からなら約1㎞なので、比較的お出かけ安い立地条件です。
第24番霊場の碑

道路から駐車場に入ると、右手に古い木造の校舎のような建物があります。これは講堂と呼ぶべきもので、言うなれば修行道場です。畳敷きになっていて、いまもボーイスカウトや空手の会などの座禅合宿が行われたりしています。

寺は比較的近世に建てられたものですが、本尊は古く、飛鳥時代作の聖観世音で近江の千手寺から尾張妙興寺を経てこの寺に祀られたと伝えられています。


大正末期、某宮妃殿下をはじめ全国の信徒十万三千人から毛髪を集め、京都西陣で奉織した毛髪観音もまつってあります。

この寺から少し山手に登っていくと、孝子伝説で有名な養老の滝があります。滝については、25番霊場である養老寺で紹介します。

養老公園周辺はどの季節も楽しめますが、やはり一番の時期は紅葉シーズンでしょう。境内だけでなく、周辺の山も色とりどりに染まって養老山地全体が一年を通じて最高の見せ場をつくりだします。近県の方にはぜひお出かけいただきたい紅葉スポットです。

この寺のある附近は、古事記に記されている当芸野というところで、伊吹山で負傷した日本武尊が、このあたりへ来たとき、足が痛み出し「当芸当芸斯玖〔たぎたぎしく〕なってしまった」ので、その後当芸野(たぎの)と呼ぶようになりました。ここから三重県にかけては、日本武尊にまつわる地名が多く残されています。





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2012年5月10日木曜日

西美濃三十三霊場第23番札所


西美濃三十三霊場第二十三番札所

補陀山報恩寺(ほうおんじ)

所 在 岐阜県大垣市綾野町2720-1

宗 派 曹洞宗

本 尊 十一面観世音菩薩

創 建 永禄元年(1558)

開 基 薩摩の僧一元和尚


報恩寺は大垣駅から約4.5㎞南西に位置します。歩いて1時間、車なら10分以内で着きます。創建は戦国時代の永禄元年(1558年)でしたが世が世だけに中絶してしまいます。創建からおよそ100年後の明暦3年(1657年)、不破郡岩手の禅憧寺(16番札所)の昌山和尚によって再建されました。


再建された報恩寺は七堂伽藍が建ち並び、大勢の雲水が修行する大寺院でしたが、洪水や台風、震災などで被災するたびに縮小していき、現在の規模になってしまいました。もはや往時をしのぶことはできませんが、古くからの農家集落の中にあり、周りは静かでのどかな雰囲気です。
 

こうしたなかで、円空さん作の薬師如来像、日光・月光両菩薩と十二神将の計15躯が奇跡的に残りました。この組み合わせすべてが揃っているのは、岐阜県内の円空仏では報恩寺だけで、全国的に見ても数例という大変貴重なものです。昭和39年(1964年)に岐阜県の重要文化財に指定されています。



伝えられるところでは、円空さんは約300年前に綾野を訪れ、たび重なる水害による疫病に苦しむ綾野の人々のために薬師三尊と十二神将を彫り、報恩寺の新福院薬師堂に奉ったところ、流行り病が治まったということです。それ以来、報恩寺に大切に安置されてきました。

保存状態も良く、荒々しいタッチですが丁寧に彫られていて、円空さんの特徴がよく顕われています。それぞれ表情は違いますが、じっと見ていると一様に優しいほほ笑みを浮かべているように感じられてきます。円空仏は予め電話で予約しておけば無料で拝観することができますので是非お出かけください。

10月には綾野祭があります。風水害がなく豊作であったことを祝う秋祭りで、江戸時代末期から伝わる曳山(ひきやま)が、華麗なからくりや子ども舞踊などを披露しながら町内を曳き回ります。


神楽やま、猩々やま、鯰やま、獅子やま、小獅子やまの5両があり、県指定の民族文化財になっています。


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2012年3月28日水曜日

西美濃三十三霊場第22番札所


西美濃三十三霊場第二十二番札所

紫雲山求浄庵(ぐじょうあん)

所 在 岐阜県大垣市久瀬川町5-62

宗 派 浄土宗

本 尊 如意輪観音

創 建 不詳

開 基 不詳



 ご本尊は、すぐ西を流れる杭瀬川に御首が流れ来たという不思議な如意輪観世音です。そのため首から上の病にことさら霊験が高いといわれています。
二十二番霊場の碑

 

 本堂は大変小さく、おそらく西美濃三十三霊場の中で最も規模が小さいお寺ではないでしょうか。


入口の目印には市の特別保護樹に指定された大銀杏があり、その下には聖観音立像があります。



ここには ご住職が不在なので、朱印が欲しい方は垂井町綾戸にある光堂寺でいただけることになっています。

お寺の由来などについては調査不足で不明な点が多いです。今はご住職がいませんが、かつては尼御前様がいらっしゃったことがあった記憶があります。

ちょっとさびしいレポートになってしまいました。調査を継続したいと思います。

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2012年3月15日木曜日

西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


中山道赤坂宿周辺



港町、宿場町

赤坂は、江戸時代は街道の宿場として、また、主要な物流が水運だった明治時代までは港町としても栄えました。このことを示すものがいろいろと残っています。
本陣跡の標示




旧家のお屋敷

赤坂港会館(ここが川港でした)


皇女和宮降嫁と赤坂宿

安政5年(1858)、江戸幕府が勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結したことにより、朝廷と幕府の関係が悪化しました。この状況を打開するため公武合体策がとられ、孝明天皇の第8皇女和宮は、14代将軍徳川家茂の正室に迎えられるため江戸へ下ることになりました。

赤坂宿は和宮の宿泊地となったため事前に徹底的に整備され、街道筋の大半の家が幕府からの借金で強制的に建て替えされました。これを赤坂の人々は「お嫁入り普請」と呼んでいます。しばらくして大政奉還によって幕府が消滅したので、借金が帳消しになったのは幸いでした。

皇女和宮がお泊りになりました


お茶屋屋敷

徳川家康は、関ヶ原合戦の際に最初に本陣をおいた勝山の近くに、将軍上洛の際の休憩所としてこのお茶屋屋敷を造営しました。当時ここには、信長の築いた岐阜城の御殿などを移築したと伝えられています。万一のときには城郭としての機能も果たすような造りになっています。
風流な入り口 初夏の庭は牡丹でいっぱい


現在は個人所有ですが、牡丹園として整備されていて、無料で一般公開されています。東海地区でも有数の牡丹の名所で、4月後半から5月にかけて約80種類、800株の牡丹が楽しめます。



金生山化石館

赤坂宿の北側にある金生山の山麓に、金生山の化石研究に生涯を捧げた元赤坂町長・熊野敏夫のコレクションを保存・公開するため設立された化石館があります。
化石館入り口付近


現在も石灰工場や石材加工工場がたくさんあるように、金生山は全体が石灰岩層で化石の宝庫として世界的に有名です。これは、古生代まで赤坂が海底であったためで、日本列島の生い立ちを知る上で貴重な資料であると言えます。


石灰石の奇岩がむき出しの岩巣公園


入館料は大人100円、子供50円ですから、お気軽に地球の歴史に触れることができる貴重な施設です。なお、金生山の上には西美濃三十三霊場第31番札所の明星輪寺があります。



国指定史跡昼飯大塚古墳

中山道からちょっと南に入ったところに昼飯大塚古墳があります。東海地区最大級、岐阜県では最大の前方後円墳で、墳丘の全長は約150メートル、前方部62メートル、後円部直径96メートルの巨大な古墳です。高さ13メートルの墳丘は3段で築造され、周囲には壕を巡らせていたことが分かっています。
周りの家と比べて見てください


今から約1,600年前に造られ、竪穴式石室と粘土槨そして木棺直葬の3棺が確認されています。内部からは石室などは盗掘を受けていましたが、滑石製の勾玉や管玉、ガラス玉、鉄剣や鉄刀など多数の副葬品が、また、古墳の上からは円筒埴輪のほか、家・盾・甲胃形埴輪など豊富な形象埴輪が出土しています。

平成6年度から発掘調査に着手し、その成果を受けて平成12年に国の史跡に指定されました。現在は史跡公園として整備が進められています。



宿場の駅「五七処」

江戸を起点に57番目の宿場にあたる赤坂の町おこしをしようと、地元商工会の有志の皆さんによって中山道赤坂宿五七実行委員会が結成され「五七」をキーワードにした地域ブランド商品の開発が進められています。

五七処 宿場町の風情がありますね

「五七饅頭」、「五七押寿司」、「五七いなり」などのほか、家康戦勝の地「勝山」にちなんだ「開運商品」などが中山道沿いの「五七処」で販売されています。地元の新聞販売店の社長さんが、自宅を改造したお店で、赤坂を歩くときに気軽に立ち寄ることができるお土産処です。

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