西美濃三十三霊場第二十五番札所
滝寿山養老寺(ようろうじ)
所 在 岐阜県養老郡養老町養老公園1276-1
宗 派 浄土真宗大谷派
本 尊 阿弥陀如来,十一面千手観世音菩薩
創 建 奈良時代
開 基 伝・源丞内
養老寺は養老の滝への登り口にあり、自然に散策コースに取り込まれています。第24番の大菩提寺からは15分くらいで歩いてくることができます。
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第25番霊場の碑 |
養老寺の由緒をたどると、養老の滝の孝子伝説に行きつきます。そのくだりを少し記述しますと・・・
孝子伝説
昔、この美濃国(岐阜県)多渡山に貧しい樵(きこり)がいました。いつも山へ入って薪を採り、売ったお金で父親の好きな酒を買って飲ませていました。ある日薪を採りに山へ入ると、苔むした岩間から水が流れ、酒の香りが漂い、なめてみると酒の味がするではありませんか。喜んだ樵はひょうたんにつめて持ち帰り、父に飲ませますとたいへんうまいお酒とたいそう喜びました。
このことがやがて奈良の都にまで聞こえていきました。時の帝の元正天皇は、霊亀三年(717)、多度山に行幸になった折に、この美泉に浴され、痛むところをお洗いになると速やかにご回復されました。そして「老いを養う水と」おほめになって、年号を養老元年と改められ、天下の老人八十以上に位一階を授けられるなどの恩賜があり、孝子の節婦などを表彰されたということです。
ここからが養老寺の由緒になりますが、養老二年には,七堂伽藍をご創建になり、寺号を賜って滝寿山元正院養老寺と称し、滝守護不動明王(県重文)を勅納され、寺家三十坊、寺領三百国を賜り、源丞内を開基とし、法相宗を旨とし、同帝の天牌を奉安し、宝祚萬壽天下泰平を祈る勅願所となりました。
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痛みが激しい本堂 早急な修理が必要と思えます |
鎌倉時代の初期、天台宗に転派して、十一面千手観音(国重文)を本尊として、当寺を護持してきましたが、永禄五年(1561)、織田信長の兵火により、七坊堂悉く焼失し、寺領も剥奪されました。しかし、このとき滝守護不動明王、十一面千手観音などの寺の重要宝物は滝谷に避難させており無事残りました。
その後、大垣城主伊藤長門守が帰依され、天正十八年(1590)二月、仮堂が再建され寺領も寄付されました。その後、高須城主徳永石見守が再建の志を立てて、慶長元年(1596)着手、同十二年緒堂坊舎悉く完成されました。
関ヶ原合戦のとき、徳川家康が養老寺に戦勝を祈願し、合戦後その成就を喜び、新藤五国光の太刀(国重文)を寄付しました。この頃真宗大谷派初代教如上人の揖斐郡春日谷での教化中、当寺の住職が帰依し、同派に転派して、阿弥陀如来を本尊として今日に至ります。
徳川初期霊元天皇ご病気のとき、元正帝の古事から,享保十一年(1726)、菊水の霊水を取り寄せられて薬湯として用いられました。病気ご回復を喜ばれた天皇は、父君後水尾天皇のご宸翰懐紙(町重文)をご下賜になりました。
パンフレット「養老志」より
養老の滝へつづく坂道にはお土産店がたくさん並んでいます。夏でも木陰で程良い涼しさ。蝉の声を聞きながら15分位で滝まで歩けます。
養老のお土産は、何といっても孝子伝説にちなんだ「ふくべ」。すなわち瓢箪です。地元では瓢箪の栽培が盛んで、立派な瓢箪がずらりと店先に並んでいます。7つの瓢箪で「無病」(むびょう)という縁起物がありますが、よく売れるお土産です。
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1メートルクラスの巨大瓢箪もありますよ |
西美濃には養老の滝と、垂井町にある不破の滝が有名なんですが、養老の滝はそのしなやかな姿から「女滝」、不破の滝は荒々しい豪快さから「男滝」と呼ばれています。
紅葉シーズンには、とても素晴らしい姿を見せます。この季節には観光に訪れ人もたくさんいてとてもにぎわいます。
イノシシ、サル、シカ等、野生動物もしばしば出現します。たくさん生息しているようです。お土産物店の店先にはイノシシの皮が! 頭蓋骨はイノシシとシカですかね? ちょっと不気味ですね。野性味あふれるシシ鍋料理(ボタン鍋)をいただける旅館もありますから、ぜひ一度はご賞味くださいませ。