2012年1月27日金曜日

西美濃三十三霊場第18番札所


西美濃三十三霊場第十八番札所

青坂山妙応寺(みょうおうじ)

所 在 岐阜県不破郡関ヶ原町今須2591-1

宗 派 曹洞宗

本 尊 釈迦如来(聖観音)

創 建  正平15(1360)年に、今須領主 長江重影が創建

開 基  峨山禅師(総持寺2世)


妙応寺は、西美濃三十三霊場の中で関ヶ原町内にある唯一の札所です。また、6番・東光寺と同じく、東海四十九薬師霊場でもあり、そちらでは第13番札所になっています。
題18番霊場の碑
JR大垣駅からは約20㎞ですから自動車なら40分見ておけばいいでしょう。JR関ヶ原駅からなら約4㎞なので歩いて1時間程度で行けます。岐阜県でも一番西の外れにあたり、1.2㎞先はもう滋賀県です。
風格ある山門

正平15年(1360)、今須領主長江重景が母妙応の菩提を弔うために峨山禅師(総持寺2世)を招いて開山したのが始まりと伝えられていますが、次のような逸話が残っています。

強欲だった妙応は、生前、年貢の取り立てには大きい枡を使い、支払うときには小さい枡を使うなど領民を苦しめたため、死後、毎晩鬼が現れて妙応の霊をやけ火箸で突き刺し責めるようになりました。旅の僧大徹禅師から「母妙応の代わりにあなたが善行をつめば、罪業深い母妙応も救われます」と諭された長江重景が感動し、峨山禅師を招いてこの寺を建立したということです。いまでも妙応寺には、この話にまつわる1.3升と0.8升の木桝が残っています。

曹洞宗の寺院としては岐阜県下で最も古いもので、徳川時代も明治維新前まで寺領高20石が安堵され、中山道の宿場町として栄えた今須宿の中心となりました。

 

立派な山門をくぐって、回廊に囲まれた境内に入ると、そこは周囲と切り離された空間です。整然と燈篭が並び、その先に重厚な本堂を望むことができます。これらの配置は、本堂を中心に左右対象の安定した美を具現しており、気持ちが落ち着くのを感じます。

どこかタージマハルを連想しませんか?


ぐるりと塀に囲まれています
妙応寺は、薬草の枸杞クコ)を用いた精進料理でも知られていて別名枸杞寺とも呼ばれています。クコ酒、クコの天ぷら、クコごはんを中心に、ごま豆腐、湯葉の吸い物などが付くヘルシーな料理です。

2012年1月18日水曜日

西美濃三十三霊場第17番札所

西美濃三十三霊場第十七番札所
西額山新善光寺(しんぜんこうじ)
所 在 岐阜県大垣市緑園31
宗 派 天台宗
本 尊 一光三尊阿弥陀如来、聖観世音菩薩
創 建 明治14年(1881年)11月9日
開 基 



長野県長野市の信州善光寺は、皇極天皇元年(642年)に創建された、国内有数の古刹です。御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、宗派・身分・性別などを問わず、あらゆる衆生を極楽浄土にお導きくださる仏様として幅広い信仰を集めました。
善光寺信仰は平安時代末期から全国的に広まり、鎌倉時代になると各地に「善光寺」という名前の寺院が建てられたり、善光寺如来様と同じ一光三尊様式の阿弥陀如来像(善光寺仏)が祀られたりするようになりました。
平成四年(1992年)、信州善光寺がこれらの寺院へのアンケート調査を行ったところ、全国には443の「善光寺仏」があり、「善光寺」を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺にものぼることがわかりました。その一つがこの西額山新善光寺です。
第17番霊場の碑


大垣市にある新善光寺は、明治11年(1878年)に発願がなされ、同15年(1882年)5月15日「西額山新善光寺」の称号が認可されました。
寺院の建立は、信州善光寺が西濃一市五郡の有志と協力して、大垣市郭町に本堂を完成させ、同年6月1日に恵心僧都作の一光三尊阿弥陀如来を信州善光寺より当寺に移し、安置したことに始まります。

明治24年(1891年)10月28日、濃尾震災に遭遇し、本堂をはじめ庫裏その他の付属建物は全壊し、仏具、什器に至るまでことごとく破損しましたが、一光三尊阿弥陀如来の本尊だけはわずかな損傷もなく奇跡的に残りました。

その後、明治41年(1908年)3月15日に現在の本堂が再建され、昭和12年(1937年)道路建設工事のため原在地に移築され、現在に至っています。
マンションと並んで建っている新善光寺本堂

本堂は木造総丸柱、側廻り組物は三手先尾垂木という本格的なもの。向拝の蛙股は「牛に引かれて善光寺参り」の彫刻があり、内陣の欄間は二十五菩薩が彫られています。
周辺は学校やショッピングセンターも近く、住宅地に変貌しており、近年はマンションが建つなど、景観的には少々違和感があります。
本堂の造りは本格的です

2012年1月12日木曜日

西美濃三十三霊場第16番札所


西美濃三十三霊場第十六番札所
普賢山禅幢寺(ぜんどうじ)
所 在 岐阜県不破郡垂井町岩手 1038 
宗 派 曹洞宗
本 尊 釋迦如来 聖観世音菩薩
創 建 明応三(1494)年
開 基 薩州金幢寺の僧正碩和尚は開創


普賢山禅幢寺は、西美濃三十三霊場として、唯一不破郡垂井町(ふわぐんたるいちょう)にある札所です。大垣駅からは約13㎞、車なら20分くらいで着きます。大垣から電車でなら、東海道線の垂井駅で降りて約4.5㎞なので、1時間くらいで歩ける距離です。
第16番霊場の碑

禅幢寺の後ろは山ですから、ひっそりと静かで、しばし俗世界と切り離された感覚を味わうことができます。関ケ原が近く、最近は戦国時代などの歴史が静かなブームなっているせいか、「歴女」と呼ばれる若い女性のグループや中高年の小グループなどが史跡巡りを兼ねたウォーキングに来ている姿をよく見かけます。

垂井町や関ヶ原町は中山道の宿場でもあり、歴史の宝庫。18番・妙応寺や周辺の史跡と合わせてぜひ繰り返し訪ねていただきたいです。

禅幢寺は、戦国時代に蜂須賀小六正勝とともに、木下藤吉郎の軍師として天下とりの一翼を担った天才的な戦略家として有名な竹中半兵衛重治とその一族や家臣の菩提寺となっています。
16歳で家督を継いで菩提山城主となった半兵衛は、永禄7年(1564年)、若干20歳のとき、斉藤龍興の居城・稲葉山城(現在の岐阜城)をわずか17名の手勢をもって、たった1日で攻略したことで、一躍「今公明」と賞される存在になりました。
現在の岐阜城

この話には続きがあります。稲葉山城攻略の報を聴いた織田信長は、自分に譲るよう半兵衛と交渉しました。これに対し半兵衛は「主君龍興を諌めるための行動なので、何れ城は龍興に返すつもりだ」と断ったのですが、信長は、この若者の欲のない真っ直ぐな人柄に感心して、後に家臣団に加えたと伝えられています。
これまでは、信長には直接仕えず、藤吉郎配下になったというのが通説になっていましたが、最近では信長の直参だったという見方が有力です。

半兵衛は様々な逸話を残しましたが、天正7年(1579年)、播磨三木城攻略中の陣中において、まだ36歳という若さで病没します。その人物を惜しんだ羽柴秀吉は、半兵衛の故郷である垂井町菩提山に近い禅幢寺に墓を建てて弔いました。
半兵衛の墓(向かって左)

また、禅幢寺には関ヶ原合戦で敗れ、半兵衛の子・竹中重門によって捕らえられ処刑された小西行長の墓もあります。その位牌は西美濃三十三霊場の第十二番札所である観音寺(揖斐川町春日)に安置されていますので、十二番札所のブログも参照してみてください。

質素で落ち着きのある本堂
現在の本堂は、半兵衛の孫にあたる竹中重常が寛文三年(1663)三月に建立したもので、修理をされながら今日にその姿を伝えています。寄棟の屋根は思いのほか質素で、天才であっても控えめだった竹中半兵衛の人柄を思わせるような佇まいです。ただし、櫓のような造りの鐘楼は力強さを感じさせます。
 
力強く、かつ優美な鐘楼
近くには半兵衛の居城のあった菩提山(標高401m)があり、ハイキングコースが整備されています。

関ヶ原合戦で東軍に参加して戦功のあった重門は、戦後、旗本にとりたてられ、廃城とされた菩提山城の代わりに館を建てました。それが現在の岩手小学校あたりに残る「竹中陣屋跡」です。

この門の前に半兵衛の銅像があります。戦場における軍議の席の姿でしょうか?
「その姿、婦人の如し」と言われた半兵衛にしては堂々とした体格の像ですね。

2012年1月1日日曜日

西美濃三十三霊場第15番札所

西美濃三十三霊場第十五番札所
楊岐山安國寺(あんこくじ)
所 在 岐阜県揖斐郡池田町小寺304-1
宗 派 臨済宗
本 尊 十一面観音
創 建 南朝興国六年(1345年)如月 足利尊氏
開 基 鎌倉円覚寺四十二世 此山妙在禅師


安国寺の位置は、8番・善南寺と9番・弓削禅寺の間なのに、なぜ15番になったのか、理由は良く分かりません。善南寺から約2.1㎞北にあり、安國寺から北へさらに約3.2㎞程行ったところに弓削禅寺があります。
第15番霊場の碑
池田山山麓道路(西美濃お茶街道)沿道にあり、東方向を眺めれば、岐阜城のある金華山(旧稲葉山)まですばらしい眺望を楽しむことができます。周りは茶畑が広がっていて一面の緑が気持ちよく、5月頃はウォーキングに最適なコースです。

お寺の裏は御覧の通り茶畑が広がります

南朝興国6年(1345年)2月、足利尊氏公が元弘の変以来の戦没者慰霊の為、京都嵐山天龍寺の夢窓国師の勧めにより、後村上天皇の勅願を仰いで、日本国内六十余州に各々一ヶ寺の安国寺を建立した中の一つです。鎌倉円覚寺四十二世、此山妙在禅師を招いて開山しました。

戦火により幾度か焼失し、今では往時の面影はなくなって寺はこじんまりとしたものになってしまいましたが、かつては境内も広大で利生塔と共に七堂伽藍が立ち並んでいたと伝えられています。


安國寺は土岐氏ゆかりの寺で、明応4年(1495年)9月、美濃国守護土岐成頼公も当寺に入り剃髪しています。裏山には伊予国の土岐氏の忠臣:河野通直の第四子稲葉通富公によって白髭城(池田山城)が築かれ、今も城跡の一部が残存します。

悲願千人切り 白雲の墓と伝えられる五輪塔
この通富の六男光朝は白雲と号し安國寺に住んでいましたが、稲葉山城主だった斉藤道三に滅ぼされた主家土岐氏の仇を討つべく、道三に関係する人々を1夜に1人、延べ千人を切り殺そうと志をたてて、夜な夜な稲葉山城下に出没し、斉藤家を震え上がらせたという逸話が残っています。この話は下村悦夫の小説「悲願千人切り」として紹介されていて有名で、白雲の位牌や供養の五輪塔が今も安國寺にあります。


寺から東を望めば 稲葉山城(岐阜城)まで眺望できます


近くの「霞間ヶ渓」(かまがたに)は、渓谷と桜の取り合わせがすばらしい景観を作り出すことから、国指定名勝及び天然記念物になっているほどの桜の名所で、春は大勢の人で賑わいます。周辺見どころその1でも消化しましたが、遠くから見たとき、一斉に咲いた桜によって、まるで山に霞(かすみ)がかかったように見えるので「霞間ヶ渓」」と名づけられたと言われています。