西美濃三十三霊場第二十番札所
青蓮山天清院(てんせいいん)
所 在 岐阜県大垣市赤坂町
3334
宗 派 浄土宗
本 尊 阿弥陀如来(千手観音)
創 建
開 基 寛文十二年(1672)
呑龍大士(呑竜大士)は1556年から1623年、安土桃山時代から江戸時代初期の浄土宗の僧侶です。武蔵の出身で、幼少時代林西寺・岌弁に学び出家、増上寺などで修業します。
武蔵八王子大善寺3世となり浄土宗檀林の基礎固めを行いました。また徳川家康の命により上野国太田(群馬県太田市)に大光寺を建立しています。
武蔵八王子大善寺3世となり浄土宗檀林の基礎固めを行いました。また徳川家康の命により上野国太田(群馬県太田市)に大光寺を建立しています。
第20番霊場の碑 |
呑龍上人とは?
弘治2年4月23日(1556年6月2日)生~元和9年8月9日(1623年9月3日)歿
戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧。字は故信、源蓮社然誉。武蔵国埼玉郡の生まれました。
幼くして故郷の林西寺の岌弁に師事して出家し、その後江戸芝増上寺で修学。やがて、武蔵国八王子にある大善寺(浄土宗関東十八檀林の1つ)の3世となり浄土宗檀林(浄土宗僧侶の養成所)の基礎固めを行ないました。
1613年(慶長18年)徳川家康の命により上野国太田に大光院が建立され、呑竜はその開山となります。当時上州の地には度々冷害や飢饉が続き、思案に余った貧しい農民の間には、堕胎や間引き(嬰児殺し)をすることさえ行われた時代でした。
上人は惨状を見るに忍びず、寺の禄米を密かに出して与えたり、読み・書き・算盤といった、生きるための教養を貧しい人々に与え続け、又、色々な相談に応じたばかりでなく、困窮者の子弟を集めて形ばかりの御剃度を行い、お弟子(出家)という形をとって、慈悲行を続けました。このため、救われた人々からは勿論、伝え聞いた人々からも活仏として崇められ、子育呑龍上人という称が興ったといわれています。
1616年(元和2年)還暦の年、親の病気を治そうと国禁を犯し鶴を殺した少年を匿い、少年を伴い逃走し、幕府から譴責されます5年後の1621年(元和7年)、恩師であり日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって赦免となり、66歳の春に大光院に帰山しました。
元和9年、病床にあった上人は、「9日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と弟子たちに言い残す。9日の正午、雷鳴が轟く中、息を引きとったとつたえられています。
呑龍の生きた時代、その当時貧しさから堕胎の風習があったことに悲しみ、赤子を育てたことから「子育て呑竜さん」と呼ばれるようになりました。
赤坂の天清院は寛文十二年(1672)大垣藩主戸田氏信公の子息氏親公の菩提所として大垣の円通寺から如泡上人を迎えて金生山下に開基した。山門から見えるのは子育てどんりゅうさんとして親しまれている呑龍大士を祀るお堂です。
呑龍さんを祭るお堂「呑龍殿」 |
境内の様子です |