2012年3月15日木曜日

西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


中山道赤坂宿周辺



港町、宿場町

赤坂は、江戸時代は街道の宿場として、また、主要な物流が水運だった明治時代までは港町としても栄えました。このことを示すものがいろいろと残っています。
本陣跡の標示




旧家のお屋敷

赤坂港会館(ここが川港でした)


皇女和宮降嫁と赤坂宿

安政5年(1858)、江戸幕府が勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結したことにより、朝廷と幕府の関係が悪化しました。この状況を打開するため公武合体策がとられ、孝明天皇の第8皇女和宮は、14代将軍徳川家茂の正室に迎えられるため江戸へ下ることになりました。

赤坂宿は和宮の宿泊地となったため事前に徹底的に整備され、街道筋の大半の家が幕府からの借金で強制的に建て替えされました。これを赤坂の人々は「お嫁入り普請」と呼んでいます。しばらくして大政奉還によって幕府が消滅したので、借金が帳消しになったのは幸いでした。

皇女和宮がお泊りになりました


お茶屋屋敷

徳川家康は、関ヶ原合戦の際に最初に本陣をおいた勝山の近くに、将軍上洛の際の休憩所としてこのお茶屋屋敷を造営しました。当時ここには、信長の築いた岐阜城の御殿などを移築したと伝えられています。万一のときには城郭としての機能も果たすような造りになっています。
風流な入り口 初夏の庭は牡丹でいっぱい


現在は個人所有ですが、牡丹園として整備されていて、無料で一般公開されています。東海地区でも有数の牡丹の名所で、4月後半から5月にかけて約80種類、800株の牡丹が楽しめます。



金生山化石館

赤坂宿の北側にある金生山の山麓に、金生山の化石研究に生涯を捧げた元赤坂町長・熊野敏夫のコレクションを保存・公開するため設立された化石館があります。
化石館入り口付近


現在も石灰工場や石材加工工場がたくさんあるように、金生山は全体が石灰岩層で化石の宝庫として世界的に有名です。これは、古生代まで赤坂が海底であったためで、日本列島の生い立ちを知る上で貴重な資料であると言えます。


石灰石の奇岩がむき出しの岩巣公園


入館料は大人100円、子供50円ですから、お気軽に地球の歴史に触れることができる貴重な施設です。なお、金生山の上には西美濃三十三霊場第31番札所の明星輪寺があります。



国指定史跡昼飯大塚古墳

中山道からちょっと南に入ったところに昼飯大塚古墳があります。東海地区最大級、岐阜県では最大の前方後円墳で、墳丘の全長は約150メートル、前方部62メートル、後円部直径96メートルの巨大な古墳です。高さ13メートルの墳丘は3段で築造され、周囲には壕を巡らせていたことが分かっています。
周りの家と比べて見てください


今から約1,600年前に造られ、竪穴式石室と粘土槨そして木棺直葬の3棺が確認されています。内部からは石室などは盗掘を受けていましたが、滑石製の勾玉や管玉、ガラス玉、鉄剣や鉄刀など多数の副葬品が、また、古墳の上からは円筒埴輪のほか、家・盾・甲胃形埴輪など豊富な形象埴輪が出土しています。

平成6年度から発掘調査に着手し、その成果を受けて平成12年に国の史跡に指定されました。現在は史跡公園として整備が進められています。



宿場の駅「五七処」

江戸を起点に57番目の宿場にあたる赤坂の町おこしをしようと、地元商工会の有志の皆さんによって中山道赤坂宿五七実行委員会が結成され「五七」をキーワードにした地域ブランド商品の開発が進められています。

五七処 宿場町の風情がありますね

「五七饅頭」、「五七押寿司」、「五七いなり」などのほか、家康戦勝の地「勝山」にちなんだ「開運商品」などが中山道沿いの「五七処」で販売されています。地元の新聞販売店の社長さんが、自宅を改造したお店で、赤坂を歩くときに気軽に立ち寄ることができるお土産処です。

タイガース非公式サイト:http://plaza.rakuten.co.jp/5910tora

2012年3月11日日曜日

西美濃三十三霊場第21番札所


西美濃三十三霊場第二十一番札所

紫雲山安楽寺(あんらくじ)

所 在 岐阜県大垣市赤坂町756

宗 派 浄土宗

本 尊 釈迦如来(聖観音)

創 建 593年(推古天皇元年)聖徳太子

開 基 寛文十二年(1672


大垣駅から西北、直線で約4㎞のところに勝山(旧岡山)という標高53mの小さな丘があり、この東のふもとに安楽寺が建っています。最寄りのJR美濃赤坂駅からは、わずか600mほどの距離です。
第21番霊場の碑
周辺には住宅なども多いのですが、ここだけが切り離された空間のように存在していますから、山門に向かう階段を登って行くうちに、いつの間にか自分自身が歴史のパーツになったかのような感覚になります。

写真の中央に見える丘が「お勝山」

山門に続く石段

安楽寺の歴史は大変古く、創建は推古天皇元年(593)、聖徳太子によるものと伝えられる古刹です。その後は、東西交通の要衝であり、軍事的にも重要な位置にあることから、節目節目で歴史上の大事件にかかわりを持つことになります。

古くは壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が安楽寺に戦勝祈願して勝利を納め、のち大友皇子の冥福を祈り宝物を寄進したといわれています。


応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱では、足利義政と対立した足利義視が、土岐成頼を頼って一時美濃に亡命しました。その時の居所であったとされる場所が、この安楽寺の境内にあります。



さらに下って、関ヶ原合戦では、徳川家康がこの岡山に最初の東軍本陣を置き、安楽寺に戦勝祈願しました。家康は、合戦で勝利を収めたのち、「岡山」から「勝山」に名前を変え、安楽寺には三つ葉葵の定紋の使用を許しました。今も、寺のあちこちに「三つ葉葵紋」を見ることができます。


また、この寺の梵鐘は、関ヶ原合戦の際には、西軍の大谷吉継が軍営で使用したもので、合戦後に徳川家康が戦利品として寄進したものと伝えられています。











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2012年2月22日水曜日

西美濃三十三霊場第20番札所


西美濃三十三霊場第二十番札所

青蓮山天清院(てんせいいん)

所 在 岐阜県大垣市赤坂町 3334

宗 派 浄土宗

本 尊 阿弥陀如来(千手観音)

創 建 

開 基 寛文十二年(1672


通称「呑龍閣天清院」「どんりゅうさん」

呑龍大士(呑竜大士)は1556年から1623年、安土桃山時代から江戸時代初期の浄土宗の僧侶です。武蔵の出身で、幼少時代林西寺・岌弁に学び出家、増上寺などで修業します。
武蔵八王子大善寺3世となり浄土宗檀林の基礎固めを行いました。また徳川家康の命により上野国太田(群馬県太田市)に大光寺を建立しています。
第20番霊場の碑

呑龍上人とは? 

弘治2年4月23(1556年6月2日)生~元和9年8月9日(1623年9月3日)歿

戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧。字は故信、源蓮社然誉。武蔵国埼玉郡の生まれました。

幼くして故郷の林西寺の岌弁に師事して出家し、その後江戸芝増上寺で修学。やがて、武蔵国八王子にある大善寺(浄土宗関東十八檀林の1)の3世となり浄土宗檀林(浄土宗僧侶の養成所)の基礎固めを行ないました。

1613(慶長18)徳川家康の命により上野国太田に大光院が建立され、呑竜はその開山となります。当時上州の地には度々冷害や飢饉が続き、思案に余った貧しい農民の間には、堕胎や間引き(嬰児殺し)をすることさえ行われた時代でした。
上人は惨状を見るに忍びず、寺の禄米を密かに出して与えたり、読み・書き・算盤といった、生きるための教養を貧しい人々に与え続け、又、色々な相談に応じたばかりでなく、困窮者の子弟を集めて形ばかりの御剃度を行い、お弟子(出家)という形をとって、慈悲行を続けました。このため、救われた人々からは勿論、伝え聞いた人々からも活仏として崇められ、子育呑龍上人という称が興ったといわれています。

1616年(元和2年)還暦の年、親の病気を治そうと国禁を犯し鶴を殺した少年を匿い、少年を伴い逃走し、幕府から譴責されます5年後の1621年(元和7年)、恩師であり日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって赦免となり、66歳の春に大光院に帰山しました。

元和9年、病床にあった上人は、「9日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と弟子たちに言い残す。9日の正午、雷鳴が轟く中、息を引きとったとつたえられています。

呑龍の生きた時代、その当時貧しさから堕胎の風習があったことに悲しみ、赤子を育てたことから「子育て呑竜さん」と呼ばれるようになりました。
赤坂の天清院は寛文十二年(1672)大垣藩主戸田氏信公の子息氏親公の菩提所として大垣の円通寺から如泡上人を迎えて金生山下に開基した。山門から見えるのは子育てどんりゅうさんとして親しまれている呑龍大士を祀るお堂です。
呑龍さんを祭るお堂「呑龍殿」
現在は「育児健康、安産祈願」のお寺となっています。毎年4月の第一土曜から月曜までの3日間、「呑龍大士御会式」が開かれ、親子連れらが子供の無病息災を願って参詣します。
境内の様子です

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2012年2月3日金曜日

西美濃三十三霊場第19番札所


西美濃三十三霊場第十九番札所

清光山明台寺(みょうだいじ)

所 在 岐阜県大垣市墨俣町墨俣225

宗 派 浄土宗西山禅林寺派

本 尊 阿弥陀如来(十一面観音)

創 建 大治元年(1126年)

開 基 興教大師



明台寺は大垣市墨俣町にあり、JR大垣駅からは約7.5㎞、自動車で20分くらいです。すぐ目の前には清流長良川が流れ、豊臣秀吉出世の足がかりとなった一夜城跡も近くにあります。
第19番霊場の碑


寺の由来は古く、嵯峨天皇の時代(810年~823年)墨俣川(現在の長良川)に架かっていた古い木橋の橋杭が、砂中に朽ち残って自然とお地蔵様のような形になって発見されたことに遡ります。

その後、歌人だけでなく仏師としても名高い参議小野篁公(802年~852年)を京都から招き、完好でにこやかな地蔵菩薩の姿に加工彫成し、開眼供養しました。

天慶二年(939年)朱雀天皇の勅使が都より関東へ下向の途中、その地蔵堂に立ち寄り参拝し、「朽ち残る真砂の下の橋柱またみちかへて人渡すなり」と詠まれたところ、地蔵菩薩は「ニッコリ」と微笑を口に浮かべましたため、地蔵菩薩のご尊号を「橋杭笑地蔵菩薩」と名付け、小さな仮堂に祀ったのが明台寺の前身です。

明台寺は、 興教大師覚鑁上人が東方への布教の途上、墨俣の信者に請われて開山となり、大治元年(1126年)に真言新義派所属の密教寺院として建立しました。


鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、法然上人の弟子である西山上人(1177年~1247年)が東方への教化の旅で明台寺を訪れ、浄土教の教えを説きました。このとき明台寺の住僧も西山上人に帰依し、浄土宗西山禅林寺派に転宗して今日に至っています。



明台寺界隈は寺町と呼ばれ、古い寺院が多く昔の面影を残しています。廣専寺 本正寺 等覚寺 光受寺 満福寺は浄土真宗大谷派東本願寺が本山で、小道をはさんで六寺が寄り添うように建っています。各寺院には寺宝・文化財が多く、歴史の歩みを深く感じさせてくれます。


 戦国時代を語るときには欠かせない秀吉出世物語の最初を飾る「墨俣の一夜城」も近くにあります。かつては石垣しかありませんでしたが、平成3年に天守閣風の歴史資料館が建てられ、多くの人が訪れています。

城の下を流れる犀川の堤防は、2㎞にわたって約1000本の桜並木が続く花見の名所で、毎年3月末から4月上旬には「さくらまつり」が開かれ賑わいます。桜のトンネルや、花に囲まれた一夜城は圧巻で、東海地区でも有数の春の観光スポットでしょう。秋には秀吉出世祭りも開かれて賑わいます。

2012年1月27日金曜日

西美濃三十三霊場第18番札所


西美濃三十三霊場第十八番札所

青坂山妙応寺(みょうおうじ)

所 在 岐阜県不破郡関ヶ原町今須2591-1

宗 派 曹洞宗

本 尊 釈迦如来(聖観音)

創 建  正平15(1360)年に、今須領主 長江重影が創建

開 基  峨山禅師(総持寺2世)


妙応寺は、西美濃三十三霊場の中で関ヶ原町内にある唯一の札所です。また、6番・東光寺と同じく、東海四十九薬師霊場でもあり、そちらでは第13番札所になっています。
題18番霊場の碑
JR大垣駅からは約20㎞ですから自動車なら40分見ておけばいいでしょう。JR関ヶ原駅からなら約4㎞なので歩いて1時間程度で行けます。岐阜県でも一番西の外れにあたり、1.2㎞先はもう滋賀県です。
風格ある山門

正平15年(1360)、今須領主長江重景が母妙応の菩提を弔うために峨山禅師(総持寺2世)を招いて開山したのが始まりと伝えられていますが、次のような逸話が残っています。

強欲だった妙応は、生前、年貢の取り立てには大きい枡を使い、支払うときには小さい枡を使うなど領民を苦しめたため、死後、毎晩鬼が現れて妙応の霊をやけ火箸で突き刺し責めるようになりました。旅の僧大徹禅師から「母妙応の代わりにあなたが善行をつめば、罪業深い母妙応も救われます」と諭された長江重景が感動し、峨山禅師を招いてこの寺を建立したということです。いまでも妙応寺には、この話にまつわる1.3升と0.8升の木桝が残っています。

曹洞宗の寺院としては岐阜県下で最も古いもので、徳川時代も明治維新前まで寺領高20石が安堵され、中山道の宿場町として栄えた今須宿の中心となりました。

 

立派な山門をくぐって、回廊に囲まれた境内に入ると、そこは周囲と切り離された空間です。整然と燈篭が並び、その先に重厚な本堂を望むことができます。これらの配置は、本堂を中心に左右対象の安定した美を具現しており、気持ちが落ち着くのを感じます。

どこかタージマハルを連想しませんか?


ぐるりと塀に囲まれています
妙応寺は、薬草の枸杞クコ)を用いた精進料理でも知られていて別名枸杞寺とも呼ばれています。クコ酒、クコの天ぷら、クコごはんを中心に、ごま豆腐、湯葉の吸い物などが付くヘルシーな料理です。

2012年1月18日水曜日

西美濃三十三霊場第17番札所

西美濃三十三霊場第十七番札所
西額山新善光寺(しんぜんこうじ)
所 在 岐阜県大垣市緑園31
宗 派 天台宗
本 尊 一光三尊阿弥陀如来、聖観世音菩薩
創 建 明治14年(1881年)11月9日
開 基 



長野県長野市の信州善光寺は、皇極天皇元年(642年)に創建された、国内有数の古刹です。御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、宗派・身分・性別などを問わず、あらゆる衆生を極楽浄土にお導きくださる仏様として幅広い信仰を集めました。
善光寺信仰は平安時代末期から全国的に広まり、鎌倉時代になると各地に「善光寺」という名前の寺院が建てられたり、善光寺如来様と同じ一光三尊様式の阿弥陀如来像(善光寺仏)が祀られたりするようになりました。
平成四年(1992年)、信州善光寺がこれらの寺院へのアンケート調査を行ったところ、全国には443の「善光寺仏」があり、「善光寺」を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺にものぼることがわかりました。その一つがこの西額山新善光寺です。
第17番霊場の碑


大垣市にある新善光寺は、明治11年(1878年)に発願がなされ、同15年(1882年)5月15日「西額山新善光寺」の称号が認可されました。
寺院の建立は、信州善光寺が西濃一市五郡の有志と協力して、大垣市郭町に本堂を完成させ、同年6月1日に恵心僧都作の一光三尊阿弥陀如来を信州善光寺より当寺に移し、安置したことに始まります。

明治24年(1891年)10月28日、濃尾震災に遭遇し、本堂をはじめ庫裏その他の付属建物は全壊し、仏具、什器に至るまでことごとく破損しましたが、一光三尊阿弥陀如来の本尊だけはわずかな損傷もなく奇跡的に残りました。

その後、明治41年(1908年)3月15日に現在の本堂が再建され、昭和12年(1937年)道路建設工事のため原在地に移築され、現在に至っています。
マンションと並んで建っている新善光寺本堂

本堂は木造総丸柱、側廻り組物は三手先尾垂木という本格的なもの。向拝の蛙股は「牛に引かれて善光寺参り」の彫刻があり、内陣の欄間は二十五菩薩が彫られています。
周辺は学校やショッピングセンターも近く、住宅地に変貌しており、近年はマンションが建つなど、景観的には少々違和感があります。
本堂の造りは本格的です

2012年1月12日木曜日

西美濃三十三霊場第16番札所


西美濃三十三霊場第十六番札所
普賢山禅幢寺(ぜんどうじ)
所 在 岐阜県不破郡垂井町岩手 1038 
宗 派 曹洞宗
本 尊 釋迦如来 聖観世音菩薩
創 建 明応三(1494)年
開 基 薩州金幢寺の僧正碩和尚は開創


普賢山禅幢寺は、西美濃三十三霊場として、唯一不破郡垂井町(ふわぐんたるいちょう)にある札所です。大垣駅からは約13㎞、車なら20分くらいで着きます。大垣から電車でなら、東海道線の垂井駅で降りて約4.5㎞なので、1時間くらいで歩ける距離です。
第16番霊場の碑

禅幢寺の後ろは山ですから、ひっそりと静かで、しばし俗世界と切り離された感覚を味わうことができます。関ケ原が近く、最近は戦国時代などの歴史が静かなブームなっているせいか、「歴女」と呼ばれる若い女性のグループや中高年の小グループなどが史跡巡りを兼ねたウォーキングに来ている姿をよく見かけます。

垂井町や関ヶ原町は中山道の宿場でもあり、歴史の宝庫。18番・妙応寺や周辺の史跡と合わせてぜひ繰り返し訪ねていただきたいです。

禅幢寺は、戦国時代に蜂須賀小六正勝とともに、木下藤吉郎の軍師として天下とりの一翼を担った天才的な戦略家として有名な竹中半兵衛重治とその一族や家臣の菩提寺となっています。
16歳で家督を継いで菩提山城主となった半兵衛は、永禄7年(1564年)、若干20歳のとき、斉藤龍興の居城・稲葉山城(現在の岐阜城)をわずか17名の手勢をもって、たった1日で攻略したことで、一躍「今公明」と賞される存在になりました。
現在の岐阜城

この話には続きがあります。稲葉山城攻略の報を聴いた織田信長は、自分に譲るよう半兵衛と交渉しました。これに対し半兵衛は「主君龍興を諌めるための行動なので、何れ城は龍興に返すつもりだ」と断ったのですが、信長は、この若者の欲のない真っ直ぐな人柄に感心して、後に家臣団に加えたと伝えられています。
これまでは、信長には直接仕えず、藤吉郎配下になったというのが通説になっていましたが、最近では信長の直参だったという見方が有力です。

半兵衛は様々な逸話を残しましたが、天正7年(1579年)、播磨三木城攻略中の陣中において、まだ36歳という若さで病没します。その人物を惜しんだ羽柴秀吉は、半兵衛の故郷である垂井町菩提山に近い禅幢寺に墓を建てて弔いました。
半兵衛の墓(向かって左)

また、禅幢寺には関ヶ原合戦で敗れ、半兵衛の子・竹中重門によって捕らえられ処刑された小西行長の墓もあります。その位牌は西美濃三十三霊場の第十二番札所である観音寺(揖斐川町春日)に安置されていますので、十二番札所のブログも参照してみてください。

質素で落ち着きのある本堂
現在の本堂は、半兵衛の孫にあたる竹中重常が寛文三年(1663)三月に建立したもので、修理をされながら今日にその姿を伝えています。寄棟の屋根は思いのほか質素で、天才であっても控えめだった竹中半兵衛の人柄を思わせるような佇まいです。ただし、櫓のような造りの鐘楼は力強さを感じさせます。
 
力強く、かつ優美な鐘楼
近くには半兵衛の居城のあった菩提山(標高401m)があり、ハイキングコースが整備されています。

関ヶ原合戦で東軍に参加して戦功のあった重門は、戦後、旗本にとりたてられ、廃城とされた菩提山城の代わりに館を建てました。それが現在の岩手小学校あたりに残る「竹中陣屋跡」です。

この門の前に半兵衛の銅像があります。戦場における軍議の席の姿でしょうか?
「その姿、婦人の如し」と言われた半兵衛にしては堂々とした体格の像ですね。