2011年12月21日水曜日

西美濃三十三霊場第14番札所

西美濃三十三霊場第十四番札所
影向山善学院(ぜんがくいん)
所 在 岐阜県安八郡神戸町神戸978-1
宗 派 天台宗
本 尊 阿弥陀如来(聖観音)
創 建 天平年間
開 基 善深大和尚


善学院は、33霊場の中で唯一安八郡神戸町にある名刹で、大垣駅から約6.5㎞北にあります。車なら15分程度で行ける距離です。
第十四番霊場の碑

創建は古く、約1200年前の天平年間、善深大和尚が開祖と伝えられています。
弘仁8年(817年)秋、招かれてこの地を訪れた伝教大師(最澄)のまえに、比叡山日吉権現の御姿が来光あらせられ、「この地に山王権現をまつれ」との御告げがありました。大師は自ら御神体を彫刻、鎮守の杜としてまつったのが神戸町にある日吉神社です。

こちらも名刹 日吉神社

日吉神社の三重塔

嵯峨天皇(在位809~823)の勅命により、この日吉神社を護る寺として「神護寺」と号しましたが、下って元三大師(912~985)が御来杖の折、学問所として「善学院」と命名されました。
江戸時代には徳川家の守護寺として幕府から御朱印地を賜り、徳川五代将軍の位牌が安置されています。

境内は広いです
本堂は藤原期の建築様式と考えられ、素朴で荒々しい手斧造りで、柱は開基当時のものと伝えられます。流石に重厚な造りで歴史の重みを感じさせる伽藍です。
 境内には、この地を「小比叡の里」と名づけられた伝教大師の碑を初め、芭蕉の句碑、江戸時代の漢学者金龍道人の寿碑があります。
 特に江戸時代末期の南画家高橋杏村碑の碑文は、森鴎外の撰によるもので、文学史上からも貴重なものです。
重厚な造りの鐘楼


寺の表と裏には池があり、それぞれ落ち着いた日本庭園になっていますが、近頃やや手入れが行き届いていないように見受けられ残念です。


また、善学院は美濃五山の一つでもあります。美濃五山とは岐阜県美濃地域に位置する天台宗の古刹、美江寺(岐阜市)、横蔵寺(揖斐川町)、善学院(神戸町)、円興寺(大垣市)、真禅院(垂井町)の五寺院のことです。



五ヶ寺とも創建は奈良・平安時代まで遡り、1200年にわたる悠久の信仰と歴史と文化財を有する寺院で、室町時代頃より、これら最澄ゆかりの観音霊場五ヶ寺の巡拝が始まったと言われています。

2011年12月15日木曜日

西美濃三十三霊場第13番札所

西美濃三十三霊場第十三番札所
渓徳山洞泉寺(とうせんじ)
所 在 岐阜県揖斐郡揖斐川町小津678
宗 派 臨済宗
本 尊 聖観音
創 建 不詳
開 基 天文年間(約450年前)に小川但馬守により中興


洞泉寺は揖斐郡久瀬村(現揖斐川町久瀬)の山の中にあります。大垣市からは約33㎞ですから、車なら1時間くらいは見ておきたいです。養老鉄道の揖斐駅からでも約17㎞ありますから遠いです。
国道303号を北上しますが、久瀬トンネルを出たところで右折して脇道に入り、そこから小津の集落までは4㎞ほどです。
13番霊場の碑

洞泉寺の由緒については天文年間(1532~1554)ころまでは天台宗で、小津村に住んでいた小川但馬守の菩提所であるという書付が残っています。但馬守が小津村を引き払って後、一時寺は荒れました。
寺へ登る階段、山の中ですねえ
宝安という住職のときに禅宗妙心寺派に転宗し、文禄年間(1593~1596)、渓徳山洞泉寺という寺号に改め、万治3年(1661年)に西岩という住職が方丈を建立して現在の寺の基礎が成立したとのことです。


寺は小津集落を見降ろす高台にあり、眺望は上々。ここまで来ると「奥まで来たなあ」という感じですね。建物の年代は勉強不足ではっきりしませんが、ややひなびた風情は、山の中の寺にふさわしい雰囲気です。


国道303号をさらに20㎞ほど北上すると、日本一のロックヒルダム「徳山ダム」があります。揖斐川をせき止めたこのダムには、浜名湖の2倍と言われる6億6000万立方メートルもの水を貯めることができます。平成20年5月から本格運用が開始され、西美濃地方の治水に絶大な効果をもたらしています。

近くには藤橋城プラネタリウムやキャンプ場もありますし、秋は見事な紅葉も見られます。日帰り観光スポットとして今後は人気が高まっていくでしょうね。アユやアマゴ、岩魚など清流にすむ魚料理のお店も多いですし。
川魚料理店の看板 揖斐ならではのデザインです

2011年12月10日土曜日

西美濃三十三霊場第12番札所

西美濃三十三霊場第十二番札所
施無畏山観音寺(かんのんじ)
所 在 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山 2725
宗 派 曹洞宗
本 尊 千手観音、大日如来坐像、釈迦牟尼如来坐像で三佛一体
創 建 伝・養和元年(1181)開創
開 基 不詳


観音寺は、同じ揖斐郡でもただ一つ旧春日村にあるお寺です。揖斐川支流の粕川をさかのぼってどんどん奥へ入っていきます。

大垣駅からの距離は約27㎞ですが、3分の1は山あいの道なので、車なら50分くらいと考えたほうがいいでしょう。最寄り駅の揖斐駅から歩くとしたら13㎞はありますから、3時間は覚悟する必要があります。揖斐駅からバスも出ていて中山バス停まで約25分、そこからなら歩いて10分ぐらいです。

第12番霊場の碑  手前は岩清水の手洗い


観音寺の由緒によると、養和元年(1181)の創立と伝えられ、天台宗でした。創立当時は萬年山元正庵と称し、現在地より約二百メートル上方の寺跡地といわれるところにありました。弘安年間(1278~1287)に現在地の東へ移転したということです。
戦国時代には廃寺同然にまでなりましたが、慶安元年(1648年)大垣藩主2代の戸田氏信の志願により、加賀大乗寺25世白峯玄滴和尚を請うて堂宇を再建し、元正庵を観音寺と改めて開山したのが現在の場所です。


観音寺は山の斜面に建っており、境内へは階段を登ります。80段くらいですがかなり急勾配なので注意が必要です。まさに山寺。別世界に来た気分になります。


ご本尊は千手観音(町指定文化財)、大日如来坐像(県指定文化財)、釈迦牟尼如来坐像(県指定文化財)で三佛一体です。

観音寺は関ヶ原の合戦で敗れた西軍の小西行長が一時かくまわれた寺として知られており、面白い逸話が残っています。

行長は近隣の村の何者かの密告で竹中重門に捕えられましたが、中山の村人に裏切られたと思い込み、「私を裏切ったあの村を三度焼き払ってくれようぞ!」という恨みの言葉を残しました。
そのせいなのか、村で度々火災が起こるようになったことから、祟りを恐れた村人は行長の遺品を埋めて墓をつくり、観音寺に位牌を収めて供養しました。

その後、旅の僧が「私を仏として扱うのは不快」という行長の声を聴いいたため、行長の墓所に社を建てて「小西神社」として祀ることになったそうです。

キリシタンだった行長が仏を嫌がったのは分かりますが、神社というのも何か違和感がありますよね。行長の最後には諸説がありますから、あくまでその一つということです。

歴史的逸話としては、観音寺から南に向かって県道32号をさらに7㎞ほど進むと「さざれ石公園」があり、これが「国歌君が代発祥の地」と言われる場所となっています。

さざれ石とは、石灰石が長い年月の間に雨水に溶解され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液により、次第に小石を互いに凝固させて次第に大きな岩となり、河川の浸食作用により地表に露出し、さらに苔むしたものを言います。

巨大なさざれ石 ボランティアの方が上って掃除しています
9世紀、皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕えた木地師の石位左衛門が木地椀の良材を求めて春日に来た時に、巨大なさざれ石の景観を見て思わず「わが君は、千代にやちよにさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」と詠みました。


この歌は『古今和歌集』に詠み人知らずで採録されていますが、石位左衛門は後に歌人として認められ、藤原朝臣石位左衛門の名を与えられています。

この歌の「わが君」を「君が代」に改め、明治13年に曲がつけられて国歌として成立しました。鹿児島県薩摩川内市入来町も「君が代歌詞発祥の地」と主張されていますが、これは国歌として歌詞を選んだときの逸話によるものです。

また、横浜市はブラスバンド発祥の地にからめて「君が代発祥の地」を名のっています。
しかし、本当の意味での「発祥の地」と問われれば、やはりこの春日なのではないかと思います。

2011年12月6日火曜日

西美濃三十三霊場・周辺見どころ その1

西美濃三十三霊場・周辺見どころ その1
池田山とその周辺

池田ふれあい街道(お茶街道)
一番南を起点にすると、最初のスポットは池田温泉ですね。平成8年に開業以来、あまりの盛況に平成15年には宿泊もできる新館をオープンするなど、人気の観光スポットになっています。


ジャグジー浴

露天風呂
源泉は30.8℃なので少し沸かしています。
ナトリウム炭酸水素塩泉で神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節痛のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、病後回復期、疲労回復、健康増進、冷え性などに効能があるといわれています。そのため特にお年寄りに絶大な人気があります。

第8番・善南寺を過ぎて、しばらく北上すると「霞間ヶ谷」があります。ここは何と言っても桜の名所。古くから知られていて、昭和3年には既に国の名勝天然記念物に指定されており、2011年岐阜県の花見スポットランキング第7位になっています。

遠くから見ると、桜の花で山に霞がかかった様に見えるので「霞間ヶ谷」と呼ばれるようになったそうですが、まさに実感しますよ!
どうですか? かすみに見えますよね!
ここから先は池田山ろくに茶畑が広がり、鮮やかな緑と新鮮な空気に包まれます。


目にも鮮やかな緑ですよね!



名物「いび茶」は全国ブランドです
第15番安国寺を通り過ぎて少し行くと、その先に「願成寺古墳群」があります。この古墳群は岐阜県でも最大級の群集墳で、昭和44年に岐阜県の史跡に指定されました。これまで111基もの古墳が確認されています。

さらに茶畑を縫って北に向かうと、9番・弓削禅寺、10番・平安寺に行くことが出来ますが、ここで池田山の上に眼を転じてみましょう。

グライダー発信基地
池田山は、これは霞間ヶ渓から、海抜923.9mの池田山頂上まで、付近一帯の103hを占める「池田の森」として登山道・車道が整備されています。頂上に近いパラグライダー&ハンググライダーの発進基地からは、天気と風向きの良い休日には、色とりどりのグライダーの飛び立つ様子が見られます。

自然の残る山ですから、鹿の群れなどの姿を見ることもあります。そして何と言っても景色がすごい。昼の眺望、夜は夜景や星空観賞など、喧騒を離れたい人にはうってつけの場所でしょう。

2011年12月2日金曜日

西美濃三十三霊場第11番札所

西美濃三十三霊場第十一番札所
萬松山瑞巌寺(ずいがんじ)
所 在 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺192
宗 派 臨済宗
本 尊 地蔵菩薩像
創 建 建武3年(1336年
開 基 伝・行基


瑞巌寺は、10番・平安寺から北へ約2㎞のところにあります。8番・善南寺から池田山山麓を北上してきましたが、瑞巌寺までくると既に池田町から出て、揖斐川町に入っています。
第11番霊場の碑

天平年間(西暦730年頃)、行基菩薩が諸国巡錫のおり、この地に霊異を感じて一堂を建立し地蔵菩薩を安置したのが、仏縁が結ばれた初めであると伝えられています。
山門へのアプローチです
その後、この地方の武家勢力を統率した美濃の守護・土岐頼貞が禅宗に帰依し、信仰が高まります。その子土岐頼清は、旧春日村に小島城を築き、平時は現在の瑞岩寺地区に暮らしました。頼清の子・頼康の時代になると、美濃・尾張・伊勢三カ国の守護を兼任し、土岐一族の勢力は絶大なものになります。


建武3年(1336年)、頼康が父頼清の菩提を弔うために、この地に一寺を建立したのが瑞厳寺の始まりです。頼康は瑞厳寺創建にあたり、父頼清の尊崇していた地蔵菩薩を仏殿の本尊として祀りましたが、これは行基の古伝にも由来すると考えられます。本尊・木造地蔵菩薩坐像は岐阜県指定の重要文化財です。
様式美を感じる本堂です
鐘楼にはつるし柿が! のどかですねえ

文和2年(1353年)6月北朝の後光厳天皇が南北動乱の都を避けて、瑞巌寺の小島頓宮に入り、8月まで滞在された縁で、翌々年「萬松山瑞厳報国禅寺」の勅額を下賜されています。
瑞巌報国禅寺の碑

遠景です。自然に囲まれ時間が止まって見えます。

緑豊かなのどかな風景に溶け込む瑞巌寺は、さながら天平の里を思わせる風情です。時間を忘れて風景の一部になってみたいと思える場所ですね。