2012年3月28日水曜日

西美濃三十三霊場第22番札所


西美濃三十三霊場第二十二番札所

紫雲山求浄庵(ぐじょうあん)

所 在 岐阜県大垣市久瀬川町5-62

宗 派 浄土宗

本 尊 如意輪観音

創 建 不詳

開 基 不詳



 ご本尊は、すぐ西を流れる杭瀬川に御首が流れ来たという不思議な如意輪観世音です。そのため首から上の病にことさら霊験が高いといわれています。
二十二番霊場の碑

 

 本堂は大変小さく、おそらく西美濃三十三霊場の中で最も規模が小さいお寺ではないでしょうか。


入口の目印には市の特別保護樹に指定された大銀杏があり、その下には聖観音立像があります。



ここには ご住職が不在なので、朱印が欲しい方は垂井町綾戸にある光堂寺でいただけることになっています。

お寺の由来などについては調査不足で不明な点が多いです。今はご住職がいませんが、かつては尼御前様がいらっしゃったことがあった記憶があります。

ちょっとさびしいレポートになってしまいました。調査を継続したいと思います。

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2012年3月15日木曜日

西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


西美濃三十三霊場・周辺見どころ その2


中山道赤坂宿周辺



港町、宿場町

赤坂は、江戸時代は街道の宿場として、また、主要な物流が水運だった明治時代までは港町としても栄えました。このことを示すものがいろいろと残っています。
本陣跡の標示




旧家のお屋敷

赤坂港会館(ここが川港でした)


皇女和宮降嫁と赤坂宿

安政5年(1858)、江戸幕府が勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結したことにより、朝廷と幕府の関係が悪化しました。この状況を打開するため公武合体策がとられ、孝明天皇の第8皇女和宮は、14代将軍徳川家茂の正室に迎えられるため江戸へ下ることになりました。

赤坂宿は和宮の宿泊地となったため事前に徹底的に整備され、街道筋の大半の家が幕府からの借金で強制的に建て替えされました。これを赤坂の人々は「お嫁入り普請」と呼んでいます。しばらくして大政奉還によって幕府が消滅したので、借金が帳消しになったのは幸いでした。

皇女和宮がお泊りになりました


お茶屋屋敷

徳川家康は、関ヶ原合戦の際に最初に本陣をおいた勝山の近くに、将軍上洛の際の休憩所としてこのお茶屋屋敷を造営しました。当時ここには、信長の築いた岐阜城の御殿などを移築したと伝えられています。万一のときには城郭としての機能も果たすような造りになっています。
風流な入り口 初夏の庭は牡丹でいっぱい


現在は個人所有ですが、牡丹園として整備されていて、無料で一般公開されています。東海地区でも有数の牡丹の名所で、4月後半から5月にかけて約80種類、800株の牡丹が楽しめます。



金生山化石館

赤坂宿の北側にある金生山の山麓に、金生山の化石研究に生涯を捧げた元赤坂町長・熊野敏夫のコレクションを保存・公開するため設立された化石館があります。
化石館入り口付近


現在も石灰工場や石材加工工場がたくさんあるように、金生山は全体が石灰岩層で化石の宝庫として世界的に有名です。これは、古生代まで赤坂が海底であったためで、日本列島の生い立ちを知る上で貴重な資料であると言えます。


石灰石の奇岩がむき出しの岩巣公園


入館料は大人100円、子供50円ですから、お気軽に地球の歴史に触れることができる貴重な施設です。なお、金生山の上には西美濃三十三霊場第31番札所の明星輪寺があります。



国指定史跡昼飯大塚古墳

中山道からちょっと南に入ったところに昼飯大塚古墳があります。東海地区最大級、岐阜県では最大の前方後円墳で、墳丘の全長は約150メートル、前方部62メートル、後円部直径96メートルの巨大な古墳です。高さ13メートルの墳丘は3段で築造され、周囲には壕を巡らせていたことが分かっています。
周りの家と比べて見てください


今から約1,600年前に造られ、竪穴式石室と粘土槨そして木棺直葬の3棺が確認されています。内部からは石室などは盗掘を受けていましたが、滑石製の勾玉や管玉、ガラス玉、鉄剣や鉄刀など多数の副葬品が、また、古墳の上からは円筒埴輪のほか、家・盾・甲胃形埴輪など豊富な形象埴輪が出土しています。

平成6年度から発掘調査に着手し、その成果を受けて平成12年に国の史跡に指定されました。現在は史跡公園として整備が進められています。



宿場の駅「五七処」

江戸を起点に57番目の宿場にあたる赤坂の町おこしをしようと、地元商工会の有志の皆さんによって中山道赤坂宿五七実行委員会が結成され「五七」をキーワードにした地域ブランド商品の開発が進められています。

五七処 宿場町の風情がありますね

「五七饅頭」、「五七押寿司」、「五七いなり」などのほか、家康戦勝の地「勝山」にちなんだ「開運商品」などが中山道沿いの「五七処」で販売されています。地元の新聞販売店の社長さんが、自宅を改造したお店で、赤坂を歩くときに気軽に立ち寄ることができるお土産処です。

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2012年3月11日日曜日

西美濃三十三霊場第21番札所


西美濃三十三霊場第二十一番札所

紫雲山安楽寺(あんらくじ)

所 在 岐阜県大垣市赤坂町756

宗 派 浄土宗

本 尊 釈迦如来(聖観音)

創 建 593年(推古天皇元年)聖徳太子

開 基 寛文十二年(1672


大垣駅から西北、直線で約4㎞のところに勝山(旧岡山)という標高53mの小さな丘があり、この東のふもとに安楽寺が建っています。最寄りのJR美濃赤坂駅からは、わずか600mほどの距離です。
第21番霊場の碑
周辺には住宅なども多いのですが、ここだけが切り離された空間のように存在していますから、山門に向かう階段を登って行くうちに、いつの間にか自分自身が歴史のパーツになったかのような感覚になります。

写真の中央に見える丘が「お勝山」

山門に続く石段

安楽寺の歴史は大変古く、創建は推古天皇元年(593)、聖徳太子によるものと伝えられる古刹です。その後は、東西交通の要衝であり、軍事的にも重要な位置にあることから、節目節目で歴史上の大事件にかかわりを持つことになります。

古くは壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が安楽寺に戦勝祈願して勝利を納め、のち大友皇子の冥福を祈り宝物を寄進したといわれています。


応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱では、足利義政と対立した足利義視が、土岐成頼を頼って一時美濃に亡命しました。その時の居所であったとされる場所が、この安楽寺の境内にあります。



さらに下って、関ヶ原合戦では、徳川家康がこの岡山に最初の東軍本陣を置き、安楽寺に戦勝祈願しました。家康は、合戦で勝利を収めたのち、「岡山」から「勝山」に名前を変え、安楽寺には三つ葉葵の定紋の使用を許しました。今も、寺のあちこちに「三つ葉葵紋」を見ることができます。


また、この寺の梵鐘は、関ヶ原合戦の際には、西軍の大谷吉継が軍営で使用したもので、合戦後に徳川家康が戦利品として寄進したものと伝えられています。











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