2011年12月10日土曜日

西美濃三十三霊場第12番札所

西美濃三十三霊場第十二番札所
施無畏山観音寺(かんのんじ)
所 在 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山 2725
宗 派 曹洞宗
本 尊 千手観音、大日如来坐像、釈迦牟尼如来坐像で三佛一体
創 建 伝・養和元年(1181)開創
開 基 不詳


観音寺は、同じ揖斐郡でもただ一つ旧春日村にあるお寺です。揖斐川支流の粕川をさかのぼってどんどん奥へ入っていきます。

大垣駅からの距離は約27㎞ですが、3分の1は山あいの道なので、車なら50分くらいと考えたほうがいいでしょう。最寄り駅の揖斐駅から歩くとしたら13㎞はありますから、3時間は覚悟する必要があります。揖斐駅からバスも出ていて中山バス停まで約25分、そこからなら歩いて10分ぐらいです。

第12番霊場の碑  手前は岩清水の手洗い


観音寺の由緒によると、養和元年(1181)の創立と伝えられ、天台宗でした。創立当時は萬年山元正庵と称し、現在地より約二百メートル上方の寺跡地といわれるところにありました。弘安年間(1278~1287)に現在地の東へ移転したということです。
戦国時代には廃寺同然にまでなりましたが、慶安元年(1648年)大垣藩主2代の戸田氏信の志願により、加賀大乗寺25世白峯玄滴和尚を請うて堂宇を再建し、元正庵を観音寺と改めて開山したのが現在の場所です。


観音寺は山の斜面に建っており、境内へは階段を登ります。80段くらいですがかなり急勾配なので注意が必要です。まさに山寺。別世界に来た気分になります。


ご本尊は千手観音(町指定文化財)、大日如来坐像(県指定文化財)、釈迦牟尼如来坐像(県指定文化財)で三佛一体です。

観音寺は関ヶ原の合戦で敗れた西軍の小西行長が一時かくまわれた寺として知られており、面白い逸話が残っています。

行長は近隣の村の何者かの密告で竹中重門に捕えられましたが、中山の村人に裏切られたと思い込み、「私を裏切ったあの村を三度焼き払ってくれようぞ!」という恨みの言葉を残しました。
そのせいなのか、村で度々火災が起こるようになったことから、祟りを恐れた村人は行長の遺品を埋めて墓をつくり、観音寺に位牌を収めて供養しました。

その後、旅の僧が「私を仏として扱うのは不快」という行長の声を聴いいたため、行長の墓所に社を建てて「小西神社」として祀ることになったそうです。

キリシタンだった行長が仏を嫌がったのは分かりますが、神社というのも何か違和感がありますよね。行長の最後には諸説がありますから、あくまでその一つということです。

歴史的逸話としては、観音寺から南に向かって県道32号をさらに7㎞ほど進むと「さざれ石公園」があり、これが「国歌君が代発祥の地」と言われる場所となっています。

さざれ石とは、石灰石が長い年月の間に雨水に溶解され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液により、次第に小石を互いに凝固させて次第に大きな岩となり、河川の浸食作用により地表に露出し、さらに苔むしたものを言います。

巨大なさざれ石 ボランティアの方が上って掃除しています
9世紀、皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕えた木地師の石位左衛門が木地椀の良材を求めて春日に来た時に、巨大なさざれ石の景観を見て思わず「わが君は、千代にやちよにさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」と詠みました。


この歌は『古今和歌集』に詠み人知らずで採録されていますが、石位左衛門は後に歌人として認められ、藤原朝臣石位左衛門の名を与えられています。

この歌の「わが君」を「君が代」に改め、明治13年に曲がつけられて国歌として成立しました。鹿児島県薩摩川内市入来町も「君が代歌詞発祥の地」と主張されていますが、これは国歌として歌詞を選んだときの逸話によるものです。

また、横浜市はブラスバンド発祥の地にからめて「君が代発祥の地」を名のっています。
しかし、本当の意味での「発祥の地」と問われれば、やはりこの春日なのではないかと思います。

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