2012年2月22日水曜日

西美濃三十三霊場第20番札所


西美濃三十三霊場第二十番札所

青蓮山天清院(てんせいいん)

所 在 岐阜県大垣市赤坂町 3334

宗 派 浄土宗

本 尊 阿弥陀如来(千手観音)

創 建 

開 基 寛文十二年(1672)


通称「呑龍閣天清院」「どんりゅうさん」

呑龍大士(呑竜大士)は1556年から1623年、安土桃山時代から江戸時代初期の浄土宗の僧侶です。武蔵の出身で、幼少時代林西寺・岌弁に学び出家、増上寺などで修業します。
武蔵八王子大善寺3世となり浄土宗檀林の基礎固めを行いました。また徳川家康の命により上野国太田(群馬県太田市)に大光寺を建立しています。
第20番霊場の碑

呑龍上人とは? 

弘治2年4月23日(1556年6月2日)生~元和9年8月9日(1623年9月3日)歿

戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧。字は故信、源蓮社然誉。武蔵国埼玉郡の生まれました。

幼くして故郷の林西寺の岌弁に師事して出家し、その後江戸芝増上寺で修学。やがて、武蔵国八王子にある大善寺(浄土宗関東十八檀林の1つ)の3世となり浄土宗檀林(浄土宗僧侶の養成所)の基礎固めを行ないました。

1613年(慶長18年)徳川家康の命により上野国太田に大光院が建立され、呑竜はその開山となります。当時上州の地には度々冷害や飢饉が続き、思案に余った貧しい農民の間には、堕胎や間引き(嬰児殺し)をすることさえ行われた時代でした。
上人は惨状を見るに忍びず、寺の禄米を密かに出して与えたり、読み・書き・算盤といった、生きるための教養を貧しい人々に与え続け、又、色々な相談に応じたばかりでなく、困窮者の子弟を集めて形ばかりの御剃度を行い、お弟子(出家)という形をとって、慈悲行を続けました。このため、救われた人々からは勿論、伝え聞いた人々からも活仏として崇められ、子育呑龍上人という称が興ったといわれています。

1616年(元和2年)還暦の年、親の病気を治そうと国禁を犯し鶴を殺した少年を匿い、少年を伴い逃走し、幕府から譴責されます5年後の1621年(元和7年)、恩師であり日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって赦免となり、66歳の春に大光院に帰山しました。

元和9年、病床にあった上人は、「9日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と弟子たちに言い残す。9日の正午、雷鳴が轟く中、息を引きとったとつたえられています。

呑龍の生きた時代、その当時貧しさから堕胎の風習があったことに悲しみ、赤子を育てたことから「子育て呑竜さん」と呼ばれるようになりました。
赤坂の天清院は寛文十二年(1672)大垣藩主戸田氏信公の子息氏親公の菩提所として大垣の円通寺から如泡上人を迎えて金生山下に開基した。山門から見えるのは子育てどんりゅうさんとして親しまれている呑龍大士を祀るお堂です。
呑龍さんを祭るお堂「呑龍殿」
現在は「育児、健康、安産祈願」のお寺となっています。毎年4月の第一土曜から月曜までの3日間、「呑龍大士御会式」が開かれ、親子連れらが子供の無病息災を願って参詣します。
境内の様子です

http://plaza.rakuten.co.jp/5910tora

2012年2月3日金曜日

西美濃三十三霊場第19番札所


西美濃三十三霊場第十九番札所

清光山明台寺(みょうだいじ)

所 在 岐阜県大垣市墨俣町墨俣225

宗 派 浄土宗西山禅林寺派

本 尊 阿弥陀如来(十一面観音)

創 建 大治元年(1126年)

開 基 興教大師



明台寺は大垣市墨俣町にあり、JR大垣駅からは約7.5㎞、自動車で20分くらいです。すぐ目の前には清流長良川が流れ、豊臣秀吉出世の足がかりとなった一夜城跡も近くにあります。
第19番霊場の碑


寺の由来は古く、嵯峨天皇の時代(810年~823年)墨俣川(現在の長良川)に架かっていた古い木橋の橋杭が、砂中に朽ち残って自然とお地蔵様のような形になって発見されたことに遡ります。

その後、歌人だけでなく仏師としても名高い参議小野篁公(802年~852年)を京都から招き、完好でにこやかな地蔵菩薩の姿に加工彫成し、開眼供養しました。

天慶二年(939年)朱雀天皇の勅使が都より関東へ下向の途中、その地蔵堂に立ち寄り参拝し、「朽ち残る真砂の下の橋柱またみちかへて人渡すなり」と詠まれたところ、地蔵菩薩は「ニッコリ」と微笑を口に浮かべましたため、地蔵菩薩のご尊号を「橋杭笑地蔵菩薩」と名付け、小さな仮堂に祀ったのが明台寺の前身です。

明台寺は、 興教大師覚鑁上人が東方への布教の途上、墨俣の信者に請われて開山となり、大治元年(1126年)に真言新義派所属の密教寺院として建立しました。


鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、法然上人の弟子である西山上人(1177年~1247年)が東方への教化の旅で明台寺を訪れ、浄土教の教えを説きました。このとき明台寺の住僧も西山上人に帰依し、浄土宗西山禅林寺派に転宗して今日に至っています。



明台寺界隈は寺町と呼ばれ、古い寺院が多く昔の面影を残しています。廣専寺 本正寺 等覚寺 光受寺 満福寺は浄土真宗大谷派東本願寺が本山で、小道をはさんで六寺が寄り添うように建っています。各寺院には寺宝・文化財が多く、歴史の歩みを深く感じさせてくれます。


 戦国時代を語るときには欠かせない秀吉出世物語の最初を飾る「墨俣の一夜城」も近くにあります。かつては石垣しかありませんでしたが、平成3年に天守閣風の歴史資料館が建てられ、多くの人が訪れています。

城の下を流れる犀川の堤防は、2㎞にわたって約1000本の桜並木が続く花見の名所で、毎年3月末から4月上旬には「さくらまつり」が開かれ賑わいます。桜のトンネルや、花に囲まれた一夜城は圧巻で、東海地区でも有数の春の観光スポットでしょう。秋には秀吉出世祭りも開かれて賑わいます。

2012年1月27日金曜日

西美濃三十三霊場第18番札所


西美濃三十三霊場第十八番札所

青坂山妙応寺(みょうおうじ)

所 在 岐阜県不破郡関ヶ原町今須2591-1

宗 派 曹洞宗

本 尊 釈迦如来(聖観音)

創 建  正平15(1360)年に、今須領主 長江重影が創建

開 基  峨山禅師(総持寺2世)


妙応寺は、西美濃三十三霊場の中で関ヶ原町内にある唯一の札所です。また、6番・東光寺と同じく、東海四十九薬師霊場でもあり、そちらでは第13番札所になっています。
題18番霊場の碑
JR大垣駅からは約20㎞ですから自動車なら40分見ておけばいいでしょう。JR関ヶ原駅からなら約4㎞なので歩いて1時間程度で行けます。岐阜県でも一番西の外れにあたり、1.2㎞先はもう滋賀県です。
風格ある山門

正平15年(1360)、今須領主長江重景が母妙応の菩提を弔うために峨山禅師(総持寺2世)を招いて開山したのが始まりと伝えられていますが、次のような逸話が残っています。

強欲だった妙応は、生前、年貢の取り立てには大きい枡を使い、支払うときには小さい枡を使うなど領民を苦しめたため、死後、毎晩鬼が現れて妙応の霊をやけ火箸で突き刺し責めるようになりました。旅の僧大徹禅師から「母妙応の代わりにあなたが善行をつめば、罪業深い母妙応も救われます」と諭された長江重景が感動し、峨山禅師を招いてこの寺を建立したということです。いまでも妙応寺には、この話にまつわる1.3升と0.8升の木桝が残っています。

曹洞宗の寺院としては岐阜県下で最も古いもので、徳川時代も明治維新前まで寺領高20石が安堵され、中山道の宿場町として栄えた今須宿の中心となりました。

 

立派な山門をくぐって、回廊に囲まれた境内に入ると、そこは周囲と切り離された空間です。整然と燈篭が並び、その先に重厚な本堂を望むことができます。これらの配置は、本堂を中心に左右対象の安定した美を具現しており、気持ちが落ち着くのを感じます。

どこかタージマハルを連想しませんか?


ぐるりと塀に囲まれています
妙応寺は、薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られていて別名枸杞寺とも呼ばれています。クコ酒、クコの天ぷら、クコごはんを中心に、ごま豆腐、湯葉の吸い物などが付くヘルシーな料理です。

2012年1月18日水曜日

西美濃三十三霊場第17番札所

西美濃三十三霊場第十七番札所
西額山新善光寺(しんぜんこうじ)
所 在 岐阜県大垣市緑園31
宗 派 天台宗
本 尊 一光三尊阿弥陀如来、聖観世音菩薩
創 建 明治14年(1881年)11月9日
開 基 



長野県長野市の信州善光寺は、皇極天皇元年(642年)に創建された、国内有数の古刹です。御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、宗派・身分・性別などを問わず、あらゆる衆生を極楽浄土にお導きくださる仏様として幅広い信仰を集めました。
善光寺信仰は平安時代末期から全国的に広まり、鎌倉時代になると各地に「善光寺」という名前の寺院が建てられたり、善光寺如来様と同じ一光三尊様式の阿弥陀如来像(善光寺仏)が祀られたりするようになりました。
平成四年(1992年)、信州善光寺がこれらの寺院へのアンケート調査を行ったところ、全国には443の「善光寺仏」があり、「善光寺」を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺にものぼることがわかりました。その一つがこの西額山新善光寺です。
第17番霊場の碑


大垣市にある新善光寺は、明治11年(1878年)に発願がなされ、同15年(1882年)5月15日「西額山新善光寺」の称号が認可されました。
寺院の建立は、信州善光寺が西濃一市五郡の有志と協力して、大垣市郭町に本堂を完成させ、同年6月1日に恵心僧都作の一光三尊阿弥陀如来を信州善光寺より当寺に移し、安置したことに始まります。

明治24年(1891年)10月28日、濃尾震災に遭遇し、本堂をはじめ庫裏その他の付属建物は全壊し、仏具、什器に至るまでことごとく破損しましたが、一光三尊阿弥陀如来の本尊だけはわずかな損傷もなく奇跡的に残りました。

その後、明治41年(1908年)3月15日に現在の本堂が再建され、昭和12年(1937年)道路建設工事のため原在地に移築され、現在に至っています。
マンションと並んで建っている新善光寺本堂

本堂は木造総丸柱、側廻り組物は三手先尾垂木という本格的なもの。向拝の蛙股は「牛に引かれて善光寺参り」の彫刻があり、内陣の欄間は二十五菩薩が彫られています。
周辺は学校やショッピングセンターも近く、住宅地に変貌しており、近年はマンションが建つなど、景観的には少々違和感があります。
本堂の造りは本格的です

2012年1月12日木曜日

西美濃三十三霊場第16番札所


西美濃三十三霊場第十六番札所
普賢山禅幢寺(ぜんどうじ)
所 在 岐阜県不破郡垂井町岩手 1038 
宗 派 曹洞宗
本 尊 釋迦如来 聖観世音菩薩
創 建 明応三(1494)年
開 基 薩州金幢寺の僧正碩和尚は開創


普賢山禅幢寺は、西美濃三十三霊場として、唯一不破郡垂井町(ふわぐんたるいちょう)にある札所です。大垣駅からは約13㎞、車なら20分くらいで着きます。大垣から電車でなら、東海道線の垂井駅で降りて約4.5㎞なので、1時間くらいで歩ける距離です。
第16番霊場の碑

禅幢寺の後ろは山ですから、ひっそりと静かで、しばし俗世界と切り離された感覚を味わうことができます。関ケ原が近く、最近は戦国時代などの歴史が静かなブームなっているせいか、「歴女」と呼ばれる若い女性のグループや中高年の小グループなどが史跡巡りを兼ねたウォーキングに来ている姿をよく見かけます。

垂井町や関ヶ原町は中山道の宿場でもあり、歴史の宝庫。18番・妙応寺や周辺の史跡と合わせてぜひ繰り返し訪ねていただきたいです。

禅幢寺は、戦国時代に蜂須賀小六正勝とともに、木下藤吉郎の軍師として天下とりの一翼を担った天才的な戦略家として有名な竹中半兵衛重治とその一族や家臣の菩提寺となっています。
16歳で家督を継いで菩提山城主となった半兵衛は、永禄7年(1564年)、若干20歳のとき、斉藤龍興の居城・稲葉山城(現在の岐阜城)をわずか17名の手勢をもって、たった1日で攻略したことで、一躍「今公明」と賞される存在になりました。
現在の岐阜城

この話には続きがあります。稲葉山城攻略の報を聴いた織田信長は、自分に譲るよう半兵衛と交渉しました。これに対し半兵衛は「主君龍興を諌めるための行動なので、何れ城は龍興に返すつもりだ」と断ったのですが、信長は、この若者の欲のない真っ直ぐな人柄に感心して、後に家臣団に加えたと伝えられています。
これまでは、信長には直接仕えず、藤吉郎配下になったというのが通説になっていましたが、最近では信長の直参だったという見方が有力です。

半兵衛は様々な逸話を残しましたが、天正7年(1579年)、播磨三木城攻略中の陣中において、まだ36歳という若さで病没します。その人物を惜しんだ羽柴秀吉は、半兵衛の故郷である垂井町菩提山に近い禅幢寺に墓を建てて弔いました。
半兵衛の墓(向かって左)

また、禅幢寺には関ヶ原合戦で敗れ、半兵衛の子・竹中重門によって捕らえられ処刑された小西行長の墓もあります。その位牌は西美濃三十三霊場の第十二番札所である観音寺(揖斐川町春日)に安置されていますので、十二番札所のブログも参照してみてください。

質素で落ち着きのある本堂
現在の本堂は、半兵衛の孫にあたる竹中重常が寛文三年(1663)三月に建立したもので、修理をされながら今日にその姿を伝えています。寄棟の屋根は思いのほか質素で、天才であっても控えめだった竹中半兵衛の人柄を思わせるような佇まいです。ただし、櫓のような造りの鐘楼は力強さを感じさせます。
 
力強く、かつ優美な鐘楼
近くには半兵衛の居城のあった菩提山(標高401m)があり、ハイキングコースが整備されています。

関ヶ原合戦で東軍に参加して戦功のあった重門は、戦後、旗本にとりたてられ、廃城とされた菩提山城の代わりに館を建てました。それが現在の岩手小学校あたりに残る「竹中陣屋跡」です。

この門の前に半兵衛の銅像があります。戦場における軍議の席の姿でしょうか?
「その姿、婦人の如し」と言われた半兵衛にしては堂々とした体格の像ですね。

2012年1月1日日曜日

西美濃三十三霊場第15番札所

西美濃三十三霊場第十五番札所
楊岐山安國寺(あんこくじ)
所 在 岐阜県揖斐郡池田町小寺304-1
宗 派 臨済宗
本 尊 十一面観音
創 建 南朝興国六年(1345年)如月 足利尊氏
開 基 鎌倉円覚寺四十二世 此山妙在禅師


安国寺の位置は、8番・善南寺と9番・弓削禅寺の間なのに、なぜ15番になったのか、理由は良く分かりません。善南寺から約2.1㎞北にあり、安國寺から北へさらに約3.2㎞程行ったところに弓削禅寺があります。
第15番霊場の碑
池田山山麓道路(西美濃お茶街道)沿道にあり、東方向を眺めれば、岐阜城のある金華山(旧稲葉山)まですばらしい眺望を楽しむことができます。周りは茶畑が広がっていて一面の緑が気持ちよく、5月頃はウォーキングに最適なコースです。

お寺の裏は御覧の通り茶畑が広がります

南朝興国6年(1345年)2月、足利尊氏公が元弘の変以来の戦没者慰霊の為、京都嵐山天龍寺の夢窓国師の勧めにより、後村上天皇の勅願を仰いで、日本国内六十余州に各々一ヶ寺の安国寺を建立した中の一つです。鎌倉円覚寺四十二世、此山妙在禅師を招いて開山しました。

戦火により幾度か焼失し、今では往時の面影はなくなって寺はこじんまりとしたものになってしまいましたが、かつては境内も広大で利生塔と共に七堂伽藍が立ち並んでいたと伝えられています。


安國寺は土岐氏ゆかりの寺で、明応4年(1495年)9月、美濃国守護土岐成頼公も当寺に入り剃髪しています。裏山には伊予国の土岐氏の忠臣:河野通直の第四子稲葉通富公によって白髭城(池田山城)が築かれ、今も城跡の一部が残存します。

悲願千人切り 白雲の墓と伝えられる五輪塔
この通富の六男光朝は白雲と号し安國寺に住んでいましたが、稲葉山城主だった斉藤道三に滅ぼされた主家土岐氏の仇を討つべく、道三に関係する人々を1夜に1人、延べ千人を切り殺そうと志をたてて、夜な夜な稲葉山城下に出没し、斉藤家を震え上がらせたという逸話が残っています。この話は下村悦夫の小説「悲願千人切り」として紹介されていて有名で、白雲の位牌や供養の五輪塔が今も安國寺にあります。


寺から東を望めば 稲葉山城(岐阜城)まで眺望できます


近くの「霞間ヶ渓」(かまがたに)は、渓谷と桜の取り合わせがすばらしい景観を作り出すことから、国指定名勝及び天然記念物になっているほどの桜の名所で、春は大勢の人で賑わいます。周辺見どころその1でも消化しましたが、遠くから見たとき、一斉に咲いた桜によって、まるで山に霞(かすみ)がかかったように見えるので「霞間ヶ渓」」と名づけられたと言われています。

2011年12月21日水曜日

西美濃三十三霊場第14番札所

西美濃三十三霊場第十四番札所
影向山善学院(ぜんがくいん)
所 在 岐阜県安八郡神戸町神戸978-1
宗 派 天台宗
本 尊 阿弥陀如来(聖観音)
創 建 天平年間
開 基 善深大和尚


善学院は、33霊場の中で唯一安八郡神戸町にある名刹で、大垣駅から約6.5㎞北にあります。車なら15分程度で行ける距離です。
第十四番霊場の碑

創建は古く、約1200年前の天平年間、善深大和尚が開祖と伝えられています。
弘仁8年(817年)秋、招かれてこの地を訪れた伝教大師(最澄)のまえに、比叡山日吉権現の御姿が来光あらせられ、「この地に山王権現をまつれ」との御告げがありました。大師は自ら御神体を彫刻、鎮守の杜としてまつったのが神戸町にある日吉神社です。

こちらも名刹 日吉神社

日吉神社の三重塔

嵯峨天皇(在位809~823)の勅命により、この日吉神社を護る寺として「神護寺」と号しましたが、下って元三大師(912~985)が御来杖の折、学問所として「善学院」と命名されました。
江戸時代には徳川家の守護寺として幕府から御朱印地を賜り、徳川五代将軍の位牌が安置されています。

境内は広いです
本堂は藤原期の建築様式と考えられ、素朴で荒々しい手斧造りで、柱は開基当時のものと伝えられます。流石に重厚な造りで歴史の重みを感じさせる伽藍です。
 境内には、この地を「小比叡の里」と名づけられた伝教大師の碑を初め、芭蕉の句碑、江戸時代の漢学者金龍道人の寿碑があります。
 特に江戸時代末期の南画家高橋杏村碑の碑文は、森鴎外の撰によるもので、文学史上からも貴重なものです。
重厚な造りの鐘楼


寺の表と裏には池があり、それぞれ落ち着いた日本庭園になっていますが、近頃やや手入れが行き届いていないように見受けられ残念です。


また、善学院は美濃五山の一つでもあります。美濃五山とは岐阜県美濃地域に位置する天台宗の古刹、美江寺(岐阜市)、横蔵寺(揖斐川町)、善学院(神戸町)、円興寺(大垣市)、真禅院(垂井町)の五寺院のことです。



五ヶ寺とも創建は奈良・平安時代まで遡り、1200年にわたる悠久の信仰と歴史と文化財を有する寺院で、室町時代頃より、これら最澄ゆかりの観音霊場五ヶ寺の巡拝が始まったと言われています。

2011年12月15日木曜日

西美濃三十三霊場第13番札所

西美濃三十三霊場第十三番札所
渓徳山洞泉寺(とうせんじ)
所 在 岐阜県揖斐郡揖斐川町小津678
宗 派 臨済宗
本 尊 聖観音
創 建 不詳
開 基 天文年間(約450年前)に小川但馬守により中興


洞泉寺は揖斐郡久瀬村(現揖斐川町久瀬)の山の中にあります。大垣市からは約33㎞ですから、車なら1時間くらいは見ておきたいです。養老鉄道の揖斐駅からでも約17㎞ありますから遠いです。
国道303号を北上しますが、久瀬トンネルを出たところで右折して脇道に入り、そこから小津の集落までは4㎞ほどです。
13番霊場の碑

洞泉寺の由緒については、天文年間(1532~1554)ころまでは天台宗で、小津村に住んでいた小川但馬守の菩提所であるという書付が残っています。但馬守が小津村を引き払って後、一時寺は荒れました。
寺へ登る階段、山の中ですねえ
宝安という住職のときに禅宗妙心寺派に転宗し、文禄年間(1593~1596)、渓徳山洞泉寺という寺号に改め、万治3年(1661年)に西岩という住職が方丈を建立して現在の寺の基礎が成立したとのことです。


寺は小津集落を見降ろす高台にあり、眺望は上々。ここまで来ると「奥まで来たなあ」という感じですね。建物の年代は勉強不足ではっきりしませんが、ややひなびた風情は、山の中の寺にふさわしい雰囲気です。


国道303号をさらに20㎞ほど北上すると、日本一のロックヒルダム「徳山ダム」があります。揖斐川をせき止めたこのダムには、浜名湖の2倍と言われる6億6000万立方メートルもの水を貯めることができます。平成20年5月から本格運用が開始され、西美濃地方の治水に絶大な効果をもたらしています。

近くには藤橋城プラネタリウムやキャンプ場もありますし、秋は見事な紅葉も見られます。日帰り観光スポットとして今後は人気が高まっていくでしょうね。アユやアマゴ、岩魚など清流にすむ魚料理のお店も多いですし。
川魚料理店の看板 揖斐ならではのデザインです